(by環の花)
妻です。
最近、考えさせられた文章を二つ見つけたので、長文ですが時間がある時に読んでみて下さい。
※2004年の毎日新聞の記事を転載して書いた人の文章。
↓以下転載
「ヒューマンな価値観」
毎日新聞の福岡記者の「死」の現場を歩く第2部。
その中で、屠畜場で働く藤本さんはこう言う。
・・「私はね、焼き肉する時はうるさいんよ。自分でひと切れ焼いて、それを食べたら、次のひと切れを焼きなさいとね。いっぺんにいっぱいのせて焼こうとすると私が絶対許さん。いっぺんにのせたら、すぼらかしてダメになってしまうやつが必ず出るけんね。肉はひと切れずつ、自分で食べるしこ、自分で焼いて食べなさいとね。みんなうるさかと思うやろばってん、言わんではおれんとよ」・・
彼は台所に神棚を設置し、手を合わせることを欠かせない。
福岡記者の記事には第一部もあり、毎年何十万と犬や猫を処分している現場の取材である。
・・犬猫の処分業務を実際に行っている人々とのやり取りの中で、彼らの口から飛びだした言葉だ。
「必要悪という言葉のあるやろう。私らはそん必要悪たい」
そう言って自らを卑下する人たちに、私は抗弁した。
「悪じゃないでしょうもん」
「悪じやないならなんな」
彼らも食い下がる。
「善ですよ」
「善?、そげなこつ新聞に書いてみない。動物愛護家からどげな抗議の来るて思うな」
この人たちに自分らの存在を「悪」とまで言わせてしまう世間の視線に憤りを覚えた私は、勢いに駆られて言った。
「抗議ぐらい来たって構いやしません。社会の安全と環境を守っているこの仕事が何で悪ですか。善に決まってます。新聞にもそう書きます」・・
近隣から白い目で見られる保健所の人たちを前にして、そういいたくなる気持ちはわかる。いい記事だし、読めば記者もいい人だと思うがヒューマニズムに毒されていると言わざるを得ない。現場の人が言い分のほうが力強いことは続きを読めば明らかだ。
・・この取材の中で、安楽死処分を行っている人たちに「できれば一緒に作業させて下さい」と何度かお願いした。そうすることで、少しでもこの業務にたずさわっている人たちの気持ちに近づけると思ったからだ。だが、いつも断られた。「別に隠したいわけじゃないと。ただ、何の罪もない生き物を何十、何百といっぺんに殺すとだけんね。そんな思いをするとは我々だけで十分。ほかのもんにまでその気持ちを味あわせたくなかよ。殺さなんとは何の罪もない生き物だけんね・・
善とか悪とかヒューマンな価値観なんか動物には関係ねーんだ。僕はなにも処分する職員を責めるつもりは全く無い。おそらく福岡記者と同様、肉を食べたり、野犬などのいない衛生的安全な生活を望みながら、屠殺場や処分所を迷惑施設的に扱うヒューマンな連中に怒りを覚えている。以前2万匹のコアラを処分しようとするオーストラリアの記事 でも書いたが、数十万の犬や猫は職員によって処分されているのではない。日本人総体として殺しているのだ。先日、野良犬が多いある国のドキュメントを見ると、ナレーターの言葉には、日本より衛生面で遅れている印象が含まれているように感じた。本来なら日本にも何十万と野良犬がいてしかるべきなのに、せっせと殺しているだけのことだ。
記事の最後の方に書かれているのは処分する職員の切なる願いかもしれない。
・・犬猫を処分する業務に携わる人たちが仕事に割り切れなさを感じている理由の一つと して、安楽死させた犬猫の体がただちに重油で焼却さ れていることも あげられるかもしれない。(中略)日本でも戦後かなり後になるまで、処分した犬の体は徹底的に有効利用されていた。・・
↑以上転載
※以上の記事を受けて書いた北海道で平飼い養鶏をやっている方のブログ
↓以下転載
「鶏飼いにまつわる重い話」
先日、「いのちを取り込む」にTBが送られてきた。記事はedaさんによる鳥新聞の「ヒューマンな価値観」だ。
ここには、日本で生活する私たち人間の「安全を守るため」に「野犬」を殺処分する人たちのことが書かれているのだが、その中に「数十万の犬や猫は職員によって処分されているのではない。日本人総体として殺しているのだ。」という一文があった。
実は、採卵養鶏という世界も、同じような職業の人たちを必要としている。私が今いおうとしているのは、恐らく想像されるであろう、経済効率が悪くなったという理由で産卵わずか1年の鶏を屠殺する人たちのことではない。
それは、生まれたばかりのオスのヒヨコを殺処分する人たちだ。
採卵養鶏にはオスは要らない。しかしたまごはオス・メスの産み分けはできない。したがって、ふ卵機から出てきたヒヨコの半数は、即座に殺処分となるのだ。
オスのヒヨコを処分する仕事は精神的によくないと、養鶏仲間から聞いたことがある、だから長く続けず交代にするのだと。このことの真偽は確かめていないが、やりきれない仕事であることは想像に難くない。
オスだと確かめられるためだけに生まれて、消える命。これをどう受け止めればいいのか。
私たちは、わずかにオスも飼っている。でもそれは、メス100に対して5でしかない。一つの群にオスが多すぎても、喧嘩をしてしまってなかなかうまくいかないし、体が頑丈で肉にするのもむずかしいから、これ以上はやはり飼えない。
だから私たちも、オスを少ししか買わないという消極的なやりかたで、やはりオスのヒヨコを殺しているのだ。しかも、自分では手を下さずに、ほかの人にやらせてその精神を傷つけている。
そういう業を背負っていながらそれを忘れて、自分は命に対して誠実であるかのような気になりそうだったところに、ガツンと一発パンチを食らわせてくれた、edaさんの記事に感謝。
↑以上転載
以上の二つの転載記事を読んでとても考えさせられました。
私はオスヒヨコの事は恥ずかしながらほとんど知りませんでした。今回の入雛に初めて私も雛屋さんに着いて行って、そこの職員の人に会って、全てがリアルに感じたので自分なりに色々調べてみました。そして綺麗事では済まされない現実を知りました。
可愛い雛を見ていて苦しくなったりもしました。
何日も考え、今もはっきりとした答えは出ていませんが、今の私に出来ることは「感謝」することだけだと感じました。
オスヒヨコに限ったことではなく、全てが何かを犠牲にしてなりたっているという現実から目をそらさず、その中で少しでもいい方向に向かうようにと願い、努力し、感謝と思いやりの気持ちを忘れない。
日々食卓では、命を「いただきます」と感謝する。命を頂き、自らの命を繋げる。
毎日ヒヨコを見て可愛いと感じ、オスヒヨコの事を思い出し、鶏の憎めない性格を知り、孵化させる為に一生懸命温めている卵の体温を感じ、野菜が芽を出し、花を咲かせ、実をつけ、次世代の為に種を残そうと懸命に生きている姿を見る。今のそんな暮らしは、つい忘れてしまいそうになる感謝の気持ちを思い出させてくれる。そこがこの暮らしの一番のいいところかもしれません。