(by JIN)カウラの大脱走

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(by JIN)]

30数年前、その町には、一度、訪れた事があります。カウラです。オーストラリアのシドニーとキャンベラの中間にある小さな町です。 http://www.cowratourism.com.au/ 当時私は小学生で、父の仕事の関係でシドニーに住んでいました。家族旅行でキャンベラに向かう途中、「日本庭園がある」ということで、このカウラに立ち寄ったのです。

オーストラリアを車で旅をすると、前方は、地平線まで続く一本道です。前後共、まったく車がいないこともしばしばです。そこをかっ飛ばしている状態の中、両側に、これも地平線まで広がる牧場の風景が少しずつ視界の後ろへと流れていきます。

数時間に一度、道路の前方に複数の点が見えてきます。近づいていくと、それが、大平原に点在する小さな町です。町の中には、軽食のできる給油所があり、そして、必ず、チャイニーズレストランが一軒はありました。今は、数百万人規模の中国人が高度人材として渡豪していますが、当時の豪州在住中国人は苦労して移住した華僑の人達でした。

カウラも、そんなオーストラリアの小さな町の1つです。でも、他の町と違うのは、日本庭園があることです。また、日本レストランもありました。シドニーでも2軒しか日本レストランがない時代にです。そして、カウラには、日本人墓地がありました。

たしか、日本人墓地には行ったと思います。そして、かつて、この地に日本人の捕虜収容所があったことが石碑か何かに記されているのを父に読んでもらったように記憶しています。

しかし、この地で日本人捕虜の大脱走事件があったことを知るのは、30年後の昨日、録画したNHKのBSアーカイブスを観たときです。 http://bit.ly/r4oJwk

1943年から、カウラには、日本兵1,100人を含む捕虜を収容する施設がありました。1944年、この捕虜収容所から、日本兵が自殺的な脱走を図り、235名(オーストラリア人4名、日本人231名)が命を落としたのです。 http://bit.ly/r97WYD

戦争がもたらす傷跡について知るとき、私がいつも心を痛めるのは、戦死した方やそのご遺族の事も去ることながら、祖国復帰を果たした方が抱えてしまう心の傷です。

「素晴らしい戦友が命を散らしたのに、なんでこんな俺がのうのうと生きている事ができるのか?そのことを思うと、申し訳ないという気持ちはいつまでも消えない」

私は、この言葉に接するたびに、戦争のむごさに涙が止まらなくなります。カウラの事件も、戦後60年経って、ようやく重い口を開いてくださった、元捕虜の方たちの証言によって、その実態が明らかになってきました。この方々の証言を無にしてはならず、そこで学んだ事を今に生かすのが私の責務です。

NHKドキュメンタリー番組「カウラの大脱走」を観て、私は、3つの事を感じました。

1つ目は、オーストラリア人の寛容さです。

カウラ収容所では、ジュネーブ条約に則り、捕虜に対して大切に接していました。日本人捕虜は、満足な衣食を与えられ、レクレーションもかなり認められていました。

にもかかわらず、日本兵は脱走を企て、その際、オーストラリア人も4名、命を落としています。

それでも、戦後、オーストラリアは、この地に日本人墓地をつくり、20年後に日本政府に管理を委ねるまで、これを管理してきました。

自国民に犠牲を強いまでしたこの事件について、日本人を追悼するオーストラリア人には、その心の広さを感じます。残念ながら、その許容する心の底については、ドキュメンタリーでは触れられていませんでしたが、この事件について考えるとき、まずはその点に思いを致す事が大切だと感じます。

2つ目は、旧日本軍の建前論の限界性です。

カウラ収容所に連行される前、日本人捕虜は、尋問を受けます。その際、階級と名前だけは絶体に明かさず、仮名にしたりするのですが、軍事機密については洗いざらい喋ってしまうのがほとんどです。

なぜか?

階級と名前を明かさないのは、内地にいる家族に対して、「自分が捕虜である」という事実が伝わってしまうのを恐れるからです。当時、家族にその事実が伝わると、周囲から「非国民」と罵られ、一家心中に追い込まれるようなケースもありました。

このメンタリティは、日本兵必携の軍隊手帳「戦陣訓」にある一節「生きて虜囚の辱を受けず」に端的に表されています。日本兵は、決して敵に降伏することは無い事が前提なので、生きて敵に捕まっているという状況そのものが社会的に許されない事だったのです。

一方で、捕まると軍事機密について喋ってしまうのは、兵士は、捕虜になった場合の対処方法について教育を受けていないからです。日本兵は生きて捕虜になる事が認められていなかったので、対処方法を教えなかったのです。国際法上、黙秘権が認められている事を彼らは知りませんでした。また、心情的には、「どうせ死ぬんだから」とヤケッパチになっている面も理由になっていました。

国が、想定される事態の範囲を定め、想定外の事態について備えを怠るというのは、今回の福島原発事故に通じます。津波の高さを7メートルと見積もり、格納容器の堅牢性だけを根拠として「絶対安全」とし、想定外の事態への備えを怠った事が、被害の拡大を招きました。

私は、想定外の事態に備えない真因は、日本人のメンタリティ「言霊信仰」にあると考えています。想定を超える事態を口にすると、「縁起が悪い」とされ、その想定外の事態を招きたいと考えているというような誤解を受けます。たとえば、捕虜になる事を想定して話をすれば、「お前は負けたいのか!?」という目を向けられます。原発事故の場合も然りです。

こうした日本人のメンタリティを治す方法を私は見出せません。

しかし、「想定外」を考慮していないケースに対して警鐘を発していくことは出来ます。そのことで、将来に対して禍根を残さない状況に近づいていきたいです。

感じた事の3点目は、民主主義の危うさです。

カウラの収容所では、捕虜たちが階級を捨て去って入所したため、軍隊の序列からは全く解放されて生活を送っていました。1,100名の捕虜は40班に分けられて組織化されました。そして、班長は、軍隊序列とは無関係に、年功序列的に選出されました。

大脱走の切っ掛けは、オーストラリアからの通告にありました。カウラ収容所の日本兵の半数を他の収容所に分離するとの通告です。この通告は、日本兵の団長に告げられ、団長が班長会に諮った所、自殺的な大脱走決行の意見が出てきました。元々生きていてはいけない俘虜の身なので、この機会に脱走を図って殺してもらおう、というのです。しかし、班長会では結論が出せず、各班に議論が下ろされました。多くの班では、対応について多数決が採られました。

戦時中に民主主義が機能したというのは、極めて珍しい事態です。ドキュメンタリーの証言によれば、本音では「生きていたい!」と思っていた方が多かったです。生きて内地に帰国し、親の顔を見たいという気持ちです。人として当然の感情です。

しかし、多くの班では、「死んで脱走を図る」という意見が大勢を占めました。本音では「生きたい!」という希望を持っていた人も、多くは、「死」の方に票を投じています。その裏には、仲間は戦陣訓に従った勇ましい気持ちでいるだろうに、自分だけ、弱い気持ちをさらけ出すのは恥ずかしいという感情がありました。

民主主義は、国民の気持ちが反映される仕組みという建前になっています。しかし、カウラ収容所の例を見て分かることは、現実には、気持ちと裏腹の結論の方に票を投じてしまう事が起こってしまう、ということです。

こうした事態を防ぐ手立ては、イシューをそのまま投げるのではなく、対立のポイントを明確に整理した上で、判断を委ねるということです。カウラの例でいえば、班長会で議論された賛否について、それぞれの理由も付した上で各班に下ろしていれば、異なる結論に達していた可能性が高いです。

現代のにおいても、集団的意思決定が求められる場合は、対立点の明確化が求められます。私自身も、そのことに少しでも貢献していければ、と考えます。

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