(by JIN)OTOSHA19「昭和15年戦争」Day2受講記録

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(by JIN)

5月18日に実施されたOTOSHA19「昭和15年戦争」Day2の受講記録を書きます。

本稿では、受講者目線で、セミナーの受講記録を書きます。なお、一部JINの私見にわたる個所が含まれる点、ご容赦ください。

5月は、「昭和15年戦争」をテーマとして、4回でセミナーを行います。今月は、理想科学工業株式会社様のご厚意により、同社の会議室をお借りしての実施です。

「昭和15年戦争」Day2では、15年戦争が始まった1930年頃の世相をディスカッションしました。というのも、1920年代は大正デモクラシー時代で、比較的、自由を謳歌する雰囲気にあったのに、1930年辺りを境に、軍国主義に染まっていったからです。1930年は、したがって、その後の戦争の泥沼に入っていかないための、「Point of No Return」でした。
Day2のメインイシューは、仮に、自分が1930年に存在していた場合、戦争に対してどのようなスタンスに立っていたか?というものでした。

その答えは、1人1人異なりますが、1930年の一個人としての判断に影響を与えた可能性のある事象を次の2つの側面から考えていきました。
■戦争に反対する切っ掛けになり得た事象
■戦争に賛成する切っ掛けになった事象

以下、具体的に見ていきます。

■戦争に反対する切っ掛けになり得た事象

1931年に起きた満州事変は、満州に展開していた軍隊である関東軍が、日本の陸軍本部・内閣の政策とは関係無しに、独断で起こした柳条湖爆破事件によって勃発しました。

近代以降の戦争は、戦費調達・兵役等の面で国民に大きな負担を強制せずに成り立たなくなっているため、国民の支持がなければ遂行不能です。したがって、関東軍も、自分たちが起こした戦争に関しての世論の動向には相当神経質になっていて、独断行動だったが故に、かなりビクビクもので世論の行方を見守っていました。

結果的に世論は満州事変賛成の方向に傾きます。しかし、1930年前後では、世論は、まだ軍部の満州における膨張に必ずしもすべて迎合する雰囲気ではありませんでした。

そんな中、明確に軍部の膨張に異議を唱えていた知識人もいました。東洋経済新報社で論陣を張っていた石橋湛山やジャーナリストの長谷川如是閑(にょぜかん)等です。彼らの冷静なロジックに、世論がもう少し耳を傾けていれば、戦争の膨張は防げました。

次項で見るように、結局は、戦争に向かう世論が優勢となるのですが、冷静に事態を見つめる目をいかに見失わないかが、今も私たち1人1人に課せられた課題です。

■戦争に賛成する切っ掛けになった事象

まずは、戦争に対する楽観的な風潮があります。日本は、1914?18年の第一次大戦において、欧州の戦争から遠く離れた場所にいながらにして、マリアナ諸島等のドイツ植民地を奪取する等、相当にオイシイ思いをしました。この思いから、国民の意識の中に、戦争を楽観視する傾向が生まれていました。

次に、マスコミによる軍拡礼賛報道があります。満州事変勃発時、それまで軍拡に批判的であった朝日新聞が、これを正当な自衛戦争であるとして擁護する社説を掲載しました。以後、日本の大手マスコミは、総じて軍拡礼賛報道へと変質していきます。朝日新聞報道の裏には、満州事変前、軍部主導で戦争に反対する朝日新聞の不買運動を展開した事、逆に戦争賛成報道に転ずると部数が増加した、といった事情があります。原因はともかく、マスコミの戦争助長報道を受けて、国民にも戦争肯定の意識が高まっていきました。

3点目に、1930年の浜口首相狙撃等、軍部に反対する者に対するテロの進行いう事態が挙げられます。「物言えば唇寒し」という状況の芽が生じ始めていました。軍部批判が命がけになり始めていたのです。

4点目に、1929年のニューヨーク発大恐慌を受け、不況の嵐に襲われた事があります。不況下、家を継がずにあぶれた二男・三男の就職口として軍隊・軍需産業が魅力的な存在に見えたという事情があります。

(by JIN)

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