(by JIN)なぜ人権を尊重しなければいけないのか?

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(by JIN)
超久々のブログ更新です!

最近、「おとなの社会科」の企画に参加している関係で、こちらの更新がお留守になっていました。
http://www.otosha.com/report

さて、久々の割には、いきなり重いテーマですが、「人権」です。「人権」は、小学校6年生の社会科の授業で習って以降、大学・法学部の憲法の授業では小学校とは全く異なる教えられ方をされ、そして今、「おとなの社会科」で「人権」の新たな側面に触れています。「人権」とは、もうかれこれ、30年にもわたる付き合いになります。

本稿では、以下の順で「人権」について語ってみます。
■学校では「人権」をどのように学ぶか?
■今、私が考える「人権」尊重の根拠
■「人権」尊重の根拠に関する他説

以下、敷衍します。

■学校では「人権」をどのように学ぶか?

小学校6年生のときに、初めて「人権」という言葉を習いました。そのときは、人間は皆同じく平等に扱われなければいけないので差別はいけない、とか、友だちをいじめてはいけない、とか、そんなことを教えられました。

しかし、大学法学部の憲法の授業では、そのような人権の捉え方は根本的に誤っていることを叩き込まれ、結構、びっくりしました。

どこが誤っているかというと、憲法が保障する人権は、基本的に私人と私人の間の事柄については規律しないのです。ですから、私個人が人を差別するとか、友だちをいじめるとか、そういうこと関しては、憲法の人権は、何も関知しないのです。

憲法の人権が規律するのは、原則として、国民が公権力に対する関係のみです。つまり、国や地方自治体等から差別されたとか、自由を奪われたとか、そうなって初めて「人権」の問題が浮上するのです。というのも、これは、人権の成り立ちに関係しています。人権は、元々、欧米諸国で、市民が国家から勝ち取って得た権利です。なので、国対人の関係を規律するだけ、ということになるのです。これに対して、私人間の関係は、基本的には、自由主義原理が支配します。

そして、憲法学を学んで、もう1つ驚いたのは、憲法学は、人権をいかに保障するかということを追究する学問なのですが、では、人権がなぜ尊重されなければならないのか、という点については何も触れていないのです。人権尊重の根拠というのは、哲学の問題であって、法学の問題ではないのですね。なので、ちなみに、司法試験には、「人権尊重の根拠」という問題は出ません^^

・・・という訳で、「人権尊重の根拠」というのは、大学卒業後も、悶々としながら都度考え続けて来たテーマなのですね。一昨年、このブログでも、その時点での考え方を綴っています。
http://www.chieichiba.net/blog/2009/07/by_jin_38.html

■今、私が考える「人権」尊重の根拠

ただ、今回、「おとなの社会科」で「罪と罰」というテーマでセミナーを受講したことで、
https://sites.google.com/a/otosha.com/open/seminar/201101%E2%98%85boshuuchuuotonanoshakaika15%E3%80%8Ctsumitobachihanzaishanifusawashiikeibatsutoha%E3%80%8D
もう一段、人権に関して、考えが深まったのではないかと思いますので、今回は、その新たな考えについて語ってみます。

人権とは、ただ人が人であるというだけで尊重される権利です。ですから、人権尊重の根拠を探っていくと、詰まる所は、「人間の素晴らしさ」はどこにあるのか、ということを考えることに行き着きます。そして、「人間の素晴らしさ」について、本当に腹に落ちて納得しようと思うと、結局は、自分自身の素晴らしさを実感できないと難しいのではないかと思うのです。

この「自分自身の素晴らしさ」を一言でいえば、「自己肯定感」です。まずは、自分に対する自己肯定感を実感できて、初めて、他人の素晴らしさも見えて来る、という順番になるのだと思います。なぜなら、人間は、所詮、自分自身の気持ちしか実感できず、他人の気持ちについては、自分の感じ方から推測するしか手立てがないからです。

つまりは、容姿とか体力とか能力とかにかかわらず、条件抜きに、ただ自分は素晴らしいという自己肯定感を人間は持つことができる、ということが人権尊重の根拠になっていると思うのです。

■「人権」尊重の根拠に関する他説

たとえば、キリスト教の場合は、人間は神の似姿ですので、そこに人間(=人権)尊重の根拠を求めることができます。人権は、天賦人権説という言葉もある通り、元々キリスト教から来ていることもそのことを裏付けています。

しかし、キリスト教に依らなくても、自己肯定感を育むことはできます。たとえば、たとえ自分がどんな状況に陥ろうと、いかなる条件も抜きに、とにかく無条件に自分を愛してくれる親に育てられた子供は、自己肯定感を持つことが、かなりの程度、期待できるのではないかと思います。

また、カントはキリスト教を信仰しながらも、キリスト教とは離れて哲学の観点から、人間尊重の必要性について論じています。カントは、人間は、一切の欲望から離れて行動するとき、自由意思に基づいて行動することができ、その自由意思を有する点に人間尊重の根拠を認めることができるとしました。

しかし、カントの自由意思を基軸とする考え方に立ってしまうと、刑罰論を考える際に限界が生じてしまいます。というのも、自由意思尊重を徹底すれば、刑罰は、自由意思に基づいて行動できる状況にあったにも拘らず、敢えて違法行為を選択した事に対する応報として加えられることになるからです。つまり、刑罰に目的を考慮することはできず、刑罰はすべて応報原理によって支配されることになります。しかし、応報刑だけで刑罰を論ずるのは、価値観が多様化している現代では限界があります。たとえば、パン泥棒は、盗んだときに使った手を切断されるべきなのでしょうか・・・?現代では、懲役刑となりますが、それは応報刑だけでは説明がつきません。

この点、人権尊重の根拠を「自己肯定感」に置けば、他者尊重につながる自己肯定感を持つことができるよう、窃盗犯に対して懲役刑を以って教育することも容認することができるようになります。

さらに、以前、私はこのブログで、人権が認められてきたのは、ナポレオン戦争以降、国民尊重なしに国家が成り立たなくなってきたらかだとしています。
http://www.chieichiba.net/blog/2009/07/by_jin_38.html

たしかに、国家の側から見れば、歴史の流れとして、今でもその見方は正しいと思います。

しかし、それは、単に、人権が認められるようになってきた歴史を語っているに過ぎません。人権尊重の根拠は、もっと、人間の側から、その素晴らしさを説明していかないと説得力のある議論にはつながらないと思います。

(by JIN)

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