(by JIN)取調べの可視化

| コメント(0) | トラックバック(0)

(by JIN)
裁判員制度導入に伴い、取調べ状況について、一部、録画・録音がなされるようになりました。民主党は、マニフェストに「取調べの可視化」を盛り込んでおり、今国会への法案化は見送る様子であるものの、取調べの全面的な録画・録音を求める構えを取っています。

今回のブログでは、「取調べの可視化」の根底に流れる価値観の対立を探った上で、昨今の「取調べの可視化」をめぐる議論の背景にある権力闘争に想像をめぐらし、今後の議論の流れをうらなってみます。

■「取調べの可視化」の根底に流れる価値観の対立

具体的なデータは持っていないのですが、日本の刑事裁判では、密室である取調室で検察官が書いた取調書に被告人が押印した「検察官面前調書」が、有罪立件の上で大きな役割を果たすことが多いと聞きます。実際には、「?の状況の下で、私はカッとなって?しました」といったような、よくありそうな犯罪状況を再現した検察官の作文に被告人が押印する、という形式のことが多いそうです。

本当は自分はやっていないのに、「やった!」と自白するはずがない・・・ 密室で捜査官と対峙した経験のない一般人は、ごく一般的な感情として、そのように思ってしまいます。「自白は証拠の王様」と言われるのもその由縁です。

しかしながら、近代刑事法が登場してから長い間自白の研究が行われる中で、密室での精神的圧迫は、無実であるにも拘らず自白をうながしてしまうケースがあることが明らかになってきています。それは学問的に証明されるだけでなく、現に、繰り返される冤罪事件が、そのことを証明しています。

このたび、民主党が「取調べの可視化」を主張している理論的な背景には、この「冤罪防止」ということがあるのだと思います。

ただし、ここで思いを致すべきは、仮に実際に取調べの可視化を完全実施した場合、どのような事態が引き起こされるか、ということです。

現在、日本の刑事手続き上、自白がきわめて有力な証拠とされている以上、現在の捜査体制を前提にすれば、実際に犯罪を犯した者に対して有罪を問うのが困難になることが予想されます。そこから予想される結末は2つほど考えられるのですが、その結末を国民は黙って許容できるのか?「取調べの可視化」は、本来は、そこを突き詰めた上で、腹をくくって議論すべきテーマではないかと考えます。

1つの想定は、単純に、起訴率が下がる、ということです。現在、日本の司法は、起訴されれば99%有罪になるという実態があり、起訴するか否かの権限は原則的に検察官に委ねられています。検察官としては、有罪率を落とすことは自らの業績に直結しますから、有罪率維持のため、自白に基づく証拠がなく証拠不十分な事案については不起訴処分にするというマインドが働くようになると考えられます。

しかし、最近、刑罰の厳罰化や時効の廃止・長期化など、犯罪被害者・遺族を尊重する動きが強まっています。そうした中で、かつては独占的であった検察の起訴処分権についても、検察審査会から物申すといった動きも徐々にですが、出始めています。このように、特に被害者の立場から、「実態的真実の発見」を望む声が強くなってきているのが実情で、それに対して、検察による「証拠不十分」という見解が、どこまで説得力を持ち得るのかについて、疑問があります。

2つ目の想定は、自白は望み薄だが、「実体的真実は求めたい」ということになると、取調べ前の捜査過程がより人権侵害的・過激になる可能性がある、ということです。

以前(20年ほど前ですが)、刑事訴訟法を勉強していたときに学びましたが、刑事手続きでは「違法収集排除法則」という理論があります。それは、重大な人権侵害を伴う捜査によって入手した証拠は、裁判上、証拠として採用されない、というものです。

この「違法収集排除法則」について、日本で判例上争われていたのは、覚せい剤事犯に対するカテーテル挿入です。具体的には、覚せい剤服用の可能性がある被疑者に対して任意に尿提出を求めても応じない場合、尿道にカテーテルという管を挿入して強制採尿する、というものです。覚せい剤の場合、体内での残存期間が限られているため、時間的な制約もあって捜査上取られる措置です。

これに対して、元々、「違法収集排除法則」が唱えられた米国では、もっと激烈な事案が問題になっていました。銃の撃ち合いが行われたケースで、被疑者の体内に打ち込まれた銃弾が証拠として必要となったために、その銃弾を被疑者の意思に反して強制的に手術して取り出した、というものです。

こうした捜査の激烈さの相違の1つの背景に、「取調べの可視化」があると考えられます。つまり、米国では、取調べにも弁護士の立ち合いが認められるため、自白を証拠に用いることは極めて困難です。そのために、勢い捜査が激烈にならざるを得ない面があるといえます。

以上のことを踏まえると、日本で「取調べの可視化」を本当に検討しようと思うと、ある程度実体的真実の発見を犠牲にしても被疑者の人権尊重を優先しようとする価値観を共有するか、取調べ前の捜査の過激化をある程度容認するか、といった所まで踏み込んで議論していく必要があると考えます。

■昨今の「取調べの可視化」をめぐる議論の背景にある権力闘争

以上が理論的な解説ですが、以下、あくまで私の想像であることを前提としますが、昨今の「取調べの可視化」の議論について、政治的な駆け引きの観点から考えてみます。

民主党が、「取調べの可視化」をマニフェストに盛り込んでいる理由は、理論的には、先に触れた「冤罪防止」ということでしょう。ただ、少し気になるのは、政治家の汚職事件は、「自白」がほとんど唯一の証拠となるケースが多いということです。捜査上の通信傍受(盗聴)も、現行法上、政治事犯については認められていません(認められてしまうと政治活動が国家に監視されることになり兼ねず、逆に危険)。ですので、「取調べの可視化」は、これまで以上に政治事犯検挙を困難にしてしまう可能性があります。もしかすると、民主党の腹には、その辺りの思惑がある可能性も排除し切れません。

検察は、民主党が取調べの可視化を推進していることもあってかどうか、特捜部による民主党への圧力を強めています。従来、小沢一郎のような大物を政治家を狙うのに、贈収賄罪でなくて形式犯である政治資金規正法で臨むということはあり得ない手法でした。また、疑惑しか生じていない段階で、次々に捜査状況をリークしながら捜査を進めるという手法も、これまでの検察には見られなかったものです。

結果として、検察は、小沢一郎を起訴できなかったという点では、司法的には失敗したものの、鳩山内閣の内閣支持率を下落させるという点では、政治的には成功を収めたと評価できそうです。

■今後の議論の流れは・・・

では、今後、「取調べの可視化」の議論がどのように落ち着くのでしょうか。議論のゆくえをうらなうのは難しいですが、おそらく、今後、民主党と検察との権力闘争がどちらの優位に決着がつくかにかかっていることと思います。そして、今後の「取調べの可視化」の議論にあたっても、おそらく、「実体的真実の発見」という概念が国会等で真剣に議論されるということもなく、なし崩し的に決着がつくのではないかと思います。というのも、政治家にとって、「実体的真実の発見」を犠牲にしても良い、という発言は有権者に対するメッセージとしては受けが良いとはあまり考えられないからです。

私は、「取調べの可視化」に賛成です。それによって、ある程度「実体的真実の発見」が阻害されるとしても、「被疑者の人権」を尊重した方が良いと思います。「100人の有罪者を見逃すよりも、1人の無実の者を出さない」ことに人権を尊重する国家の本質があると考えるからです。

私の懸念は、私のこのような「被疑者の人権尊重」の考え方が、日本では人口に膾炙していないのではないかと思えることです。そうした状況の下に「取調べの可視化」を推し進めると、暗黙裡に捜査の激烈化が進行してしまう恐れがあります。

「取調べの可視化」が実現するとしても、その背景にある「被疑者の人権尊重」が人々の間により広く伝わり、捜査の激烈化等を許さず監視していくようになる流れを期待します。

(by JIN)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://w0.chieichiba.net/mt/mt-tb.cgi/909

コメントする