(by paco)【pacoの目×ecoの芽】019 エコエグ講座:環境問題と哲学

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(by paco)先週の、1月12日(火)にエコ・エグゼクティブ講座を行いました。今月のテーマは「環境と哲学」。よく受講してくれている方からのリクエストです。

哲学は、僕が大学時代の専攻した学問なので、得意分野ではあるのですが、何しろ哲学の領域は広い上に、環境のとの関連を学ぼうということなので、なかなか高度なテーマをいただきました。

最初に話したのは、哲学とは何か、ということです。哲学は英語で「フィロソフィー」といいます。ギリシャ語語源ですが、フィロは「愛」、ソフィーは「知・智」。知を愛すること、いろいろな知識や知恵を深めることをというシンプルな意味です。

もちろん、哲学は、ギリシャやその後のヨーロッパだけのものではありません。中国にもインドにも日本にも、イスラムにも、そしてアメリカ大陸のインディアンやオーストラリア大陸のアボリジニなどにも哲学はあります。しかし、どうしてもギリシャから始まるヨーロッパの哲学が、人間の哲学の中心になりがちなのも事実。それには理由があります。

ギリシャから始まるヨーロッパの哲学は、非常に体系的にできていて、数学や物理学などの現実的な学問から神の領域を考える倫理学まで、幅広く積み上げられ、網羅されていることが大きな理由です。中国やインドの哲学も質・量とも豊富ですが、体系立てという点ではヨーロッパ哲学の方が上で、哲学全体を語るには、ヨーロッパの哲学を軸に、アジアなどの哲学を対比的に位置づけたほうがわかりやすい、という事情があるのです。

またインディアンやアボリジニ、日本のアイヌなど、さまざまな民族が独自の哲学を持っていたはずですが、こういった人たちの多くは文字を持たなかったために、哲学の内容を今の人が知ることができません。まして、体系的に知ることはできないので、どうしても「無視」されがちです。とはいえ、部分的には、彼らの哲学の内容も研究されているので、内容が劣るわけではありません。

西洋哲学を見ると顕著ですが、草創期のギリシャ時代は、すべての学問、知の体系が哲学でした。しかし時代が下るにつれて、哲学からさまざまな学問が独立していきます。数学、物理学、生物学、化学、天文学、地理学、歴史学、社会学、政治学、経済学……。こうして哲学の領域から学問が独立していき、逆に哲学は痩せていく、というか、よりピュアに限定的な領域を扱うようになりました。

現代では、哲学は一部の認識論と倫理学に限定されてしまった感があります。つまり、人間は何を理解し、何ができるのか、なすべきなのか、ということを考える領域です。ちなみに、倫理学とは、人間がなすべきこととしてはならないことについて考える分野で、道徳や宗教が対象になります。と同時に、そもそも人間は「よいこと/悪いこと」を認識できるのか、認識を誤ることはないのか、誤るとしたらどうしてか、といったことを考えるのが、認識論になり、そのうち「目は何が見えるのか」といった分野は医学や生理学に、数字はどのように理解するのかといった分野は心理学や脳性理学に、というように、哲学の分野は限定されてきています。

さて、では哲学はどのように環境問題と関わっているのでしょうか。

人間にはそれぞれ自然観があり、自然をどのようなものとして理解するかによって、環境とどう関わるのかが変わってきます。自然(世界)をどうに指揮するかは、自然科学の視点を別にして、哲学の領域では、宗教がその役割を担っています。世界最古の体系立てら他宗教であるユダヤ教、その改革によって生まれたキリスト教、イスラム教の3宗教(つまりこの3宗教は、同じ神、同じ世界認識を共有しています)では、世界は神に想像されたものとされます。髪は人間を神を模した存在としてつくったとされるので、人間は世界(環境)をつくったり、壊したりしてよいという考え方がベースにあります。しかし、二元は神の不正確なコピーという理解もあるので、自然を勝手にいじるのは神の領域であるのか、人の領域であるのかで議論がありました。しかしいずれにせよ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界観では、環境が神によって創造されたという考え方がベースになっています。

一方、日本人にもなじみのある仏教では、世界は未来永劫続く苦しみの連続であると考えます。生きてることは苦しみであり、死んでもまた生まれ変わって苦しみを味わう。永遠のせいの苦しみから逃れることが「解脱(げだつ)」であり、世界を肯定的に見る視点は、仏教にはありません。また仏教はそもそも神というものも想定していませんから、神による世界の創造、という概念もありません。よって、環境を守るとか、持続可能という概念も生じません。

よく、日本人は生まれ変わりなどの思想を持つ仏教の影響もあって、自然と共生する考え方をする、というように説明されますが、これは本来の仏教の教えから出てこない考え方です。

日本人はこうだから、西洋人はこうだから、という説明は、哲学や倫理学(宗教観)に基づいた説明なのですが、実はその説明自体が、本来の宗教の思想とは異なる、その場しのぎ的な説明なのです。

哲学や倫理学が、人間の環境に対する態度を決めている側面はとても大きいのですが、どのような哲学がどのような態度につながっているかを特定するのは、実はそう単純ではなく、僕のように少しでも学んだことがある人なら、ほとんど説明になっていないことが多いのです。

哲学が環境問題にどのように影響を与えたのか、どのような哲学をこれから持たなければならないかは、見た目ほど簡単なことではありません。安易に「西洋的」「仏教的」などと呼ぶことなく、どのような考え方が、環境にどのような影響を与えたのか、悪い影響なのか、よい影響なのかなどを、適切に説明する必要がある、ということを、学んでもらいました。

受講者の期待は、こういう哲学を持っていると環境がよくなる、こういう哲学だから環境が悪化する、といった関係を説明していくことただったのかもしれませんが、このような定式化された態度そのものが哲学的ではありません。

哲学とは、ものごとを原理原則から捉えていく態度であり、それによって理解や行動の正確さを定型的に決めるものではありません。哲学的な態度とはどのようなものか、という点については、感じがつかめたのではないかと思います。

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