(by JIN) 太平洋戦争開戦の理由

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(by JIN)

現在、pacoさんのセミナーを非常に有意義に受講しています。
http://www.chieichiba.net/blog/2009/11/what.html

今回は、そのセミナーで課題として出された「太平洋戦争開戦の理由」について書きます。

図らずも、今日は、太平洋戦争開戦から68年目に当たる日です。戦争犠牲者の方にご冥福をお祈りしつつ、二度と同じ悲劇を繰り返さない願いを込めて、私なりの仮説を書いてみます。

結論は、もっとも大きな「開戦の理由」は、「国民の戦争実施に向けての熱狂」です。そして、この「国民の熱狂」に向かわせる圧力要因として、「軍部の組織上の欠陥」「政治の無能力」「マスコミの扇動」「諸外国からの圧力」がありました。

以下、敷衍します。

■国民の熱狂

第一次世界大戦以降、戦争は全国民を巻き込む総力戦となりました。戦線突破のために登場した戦車・飛行機等の活用には鉄道等の補給線の強化が必要となり、国民生活に密接な補給線への攻撃が戦略の要となってきました。また、戦車・飛行機・軍艦の調達のためには多額の資金が必要となり、戦争の長期化が国民経済に与えるインパクトが巨大となってきたのです。さらには、戦車・毒ガス等の大量破壊兵器の出現によって、兵士や市民の人的被害が格段に大きくなり、国民の支援なしに開戦することは困難になってきました。

加えて、太平洋戦争前の日本をみると、そもそも、石油の輸入国である米国から石油を止められている中、石油を大量に必要とする戦争で立ち向かうこと自体、客観的にみてナンセンスです。裏付けは取っていませんが、開戦時点で太平洋だけを見れば日米の戦艦数等互角だったのかも知れませんが、総力戦に必要な総合的な経済力を考えれば、日米間格差は歴然としていました。

このように明らかに日本劣勢の客観的情勢の中で総力戦となる戦争に踏み切ったということは、まずは国民の熱狂的支持が前提にないと不可能です。その意味で、もっとも大きな「開戦の理由」を「国民の熱狂」と考えました。

開戦前年の1940年には神武天皇誕生を紀元とする「紀元2600年祭」が盛大に催され、日本軍は負けを知らない神軍とされました。実際、日清・日露戦争、第一次大戦と勝ち続けています(実際には、1939年のノモンハン事件でソ連に敗れましたが、国民には知らされませんでした)。日本は、明治維新以降、アジアで唯一近代化を果たした一等国であり、大東亜共栄圏の盟主であるとの認識に酔い痴れている国民が多かったのではないかと思います。

このような国民の認識が大勢を占めている状況の下では、中国からの撤兵を骨子とする米国の要求を飲むことは非常に困難な状況にあったと考えられます。

・・・もちろん、今から振り返って客観的に考えれば、泥沼化に陥っていた日中戦争の状況や日本の国力から見て、ハル・ノート受諾は現実的な選択肢であったと思いますが、それは、当時の国情を前提に考えない「後講釈」のように思います。

■軍部の組織上の欠陥

こうした「国民の熱狂」をあおった最も大きな要因は、「軍部の組織上の欠陥」だと思います。この欠陥の中でも最大のものは、最終意思決定権者が曖昧だった点にあります。つまり、天皇に属していた「大元帥による統帥権」を戦略立案機関に過ぎない陸軍の参謀本部・海軍の軍令部が天皇を輔弼する権限を盾に利用し得る状況に陥り、最終意思決定権者が不明となりました。

この状況に乗じて関東軍等の佐官クラスの将校を長とする現場部隊が暴走し、本部はそれにブレーキをかけることができませんでした。開戦直前には、なし崩し的に中国への侵略にのめり込んでいた関東軍の発言権が大きく、実際に中国からの撤兵を中央から命じることは困難であったと考えられます。

■政治の無能力

政治は、軍部の独走を止めることができなかった点で、開戦に責任を負うと考えます。

もちろん、政治が発言を控えてしまった大きな要因の1つは、5・15事件、2・26事件等の軍事テロにより暴力がはびこっていたという背景が1つにはあります。「物言えば唇寒し」という世情が作り上げられていました。

しかし、それと共に、政治が軍部の台頭を利用していた側面も見逃せません。たとえば、軍部が主張を通す根拠になった「統帥権の干犯」という言葉を最初に公の場で使ったのは政治家です。1930年のロンドン軍縮会議で「民政党」の浜口雄幸内閣が調印してきたのは当初の軍令部の主張と異なるとして「政友会」の鳩山一郎が「統帥権の干犯」に当たると主張したのが最初と言われています。当時、まだ未成熟であった二大政党制の党派抗争がスキャンダルの主張合戦や、この「統帥権の干犯」のような突拍子もない主張を生み出しています。政治家が編み出したこの「統帥権の干犯」の原理を後に軍部が利用するようになります。

このように、政治にも、発言を控えてしまったという消極的な意味でも、軍部の独走を促進してしまったという積極的な意味でも開戦の責任があると考えます。

■マスコミの扇動

マスコミは、ごく少数を除けば、新聞・ラジオを中心として、国民の戦意高揚をあおる役割を果たしました。

もちろん、マスコミは厳しい言論統制の下に置かれており、発言し得なかったという事実はあります。

しかし、政治と同じくマスコミにも、戦争に突き進む国情に乗じている姿勢もあったと思います。特に、新聞が戦意高揚に一挙に傾斜したのは、1931年の満州事変でした。その第一報がラジオから報じられたのにショックを受けた新聞は、軍部からお仕着せの情報を貰う御用新聞に堕していきました。当時の新聞購読層には、満州で一儲けを試みる商売人も多く、かれらのニーズを満たすためにも、戦意高揚型の記事一本槍になっていきました。

このように、新聞を中心とするマスコミは、消極的・積極的理由により戦意高揚の論調一本槍となり、情報経路の乏しかった国民の意識に大きな影響を及ぼしました。

■諸外国からの圧力

開戦理由には、列強からの圧力も挙げられます。

列強の中でも、日本の開戦について、明確な戦略を持ってもっとも大きな影響を及ぼしたのは、英国のチャーチルであると考えます。当時、米国は、国内的に孤立主義の声が強かったこともあり、対独戦に対して躊躇していました。他方、英国は対独戦に手こずっており、米国の対独宣戦布告を熱望していました。その米国による対独宣戦布告のためには、ドイツと三国同盟を結んでいる日本と戦争してもらうのが英国にとって都合がよかったのです。チャーチルは、日本からの和平に向けた水面下の交渉を黙殺する一方で、ルーズベルトとの会談を通して、米国に対して日本への締め付け強化を要請していました。

米国は、開戦の前月、当時の日本の国内情勢を考えれば、「最後通牒」とも言える「ハル・ノート」を日本に突き付けます。この時点では、日本との対戦もやむなしと考えていたと言えます。しかしながら、米国が対日戦を最終的に決意したのは、1941年7月の南部仏印進駐であると言われていて、それ以前は対日戦是非について逡巡していました。米国では伝統的に孤立主義の勢力が強かったことと、当時は大西洋にドイツの脅威を抱えており、二正面作戦には困難を伴うと考えられていたためです。それが、日本の南部仏印進駐によるアジアのパワーバランス崩壊の可能性が高まったということが、米国の対日強硬策への転換の理由であったと思います。

なお、米国の開戦への圧力については、ルーズベルトは開戦前から日本の真珠湾攻撃を知っていたとの説があります。しかし、現在の研究では、たしかに日本の暗号は解読されていて「何かやって来る」との認識はなされていたものの、その「何か」が具体的に何を指すのかは分かっていなかったとされています。

列強からの影響としては、もう1国、ドイツがあります。ドイツは東方にソ連を脅威として抱えており、極東からソ連を牽制し得る勢力として日本との同盟を結ぶメリットがありました。そのため、三国同盟締結に当たっては、日本の軍人に対して相当の接待攻勢を行ったと言われています。しかし、太平洋戦争の開戦については、ヒトラーの陰謀説などは存在するものの、直接の関与はなかったのではないかと思います。

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