( by JIN ) 病気の事実を受け入れるのは負けではなくて決断である

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掲題の言葉は、「希望学」(中公新書ラクレ、2006年)の中で、筆者のひとりである佐藤香氏が、ご自身の体験を踏まえて書いておられる言葉です。この佐藤香氏の言葉は、私自身の経験に照らしても胸に強く響くものがありましたので、タイトルとさせていただきました。

今回のブログでは、上記の本を読んで「希望学」について感じたことを書いた上で、私自身の経験にも重ね合わせていってみようと思います。

バブル崩壊後、「失われた15年」が過ぎ、景気が少しだけ上向きかけた所に金融危機に襲われ、日本の経済・雇用状況は停滞しています。バブル期までは聖域とされてきた大企業・正社員の雇用にもリストラの嵐が吹き荒れ、社員は終身雇用を当てにはできなくなりました。

他方で、戦後地方から都市に移り住んだサラリーマンおよびその家族は、核家族化して、地方にあったような隣近所との連帯を欠いています。

結果として、職場からも地域社会からも疎外されたサラリーマンとその家族は、孤立感を深めています。そうした中で、高度成長期のときのように3種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)といった具体的な目標もなく、現代の日本人は「希望」を失ったかの感があります。

こうした「希望喪失」が本当にそうなのかを社会学の観点からデータ検証を通して問い直そうというのが「希望学」です。上記書籍「希望学」は、約1000人に対するアンケート調査を元にして「希望」について実証的に検証しています。

その調査の中で、意外性があって面白かった結果が、現在希望を持っている人は、過去に挫折した経験を持っていることが多い、ということです。「希望を持っている人」というと、過去あまり苦労をしてこなかった楽天的な人、と私は勝手に思い込んでいたのですが、その思い込みは覆されました。

このアンケート調査結果を踏まえた上で、前掲の佐藤香氏はご自身が喘息に悩まされていた体験を踏まえ、苦しい喘息を「付き合っていかなければならないもの」と「決断」できたことで気持ちが楽になったと書いています。

古来、ことわざには、「人間万事塞翁が馬」「七転び八起き」「禍転じて福となす」「失敗は成功の母」など、失敗をバネにして成功に結びつけていけるということは縷々言われているところではあります。しかしながら、「希望学」はそれをデータで検証し、また、佐藤香氏は検証結果を数字の羅列に終わらせずにご自身の体験に重ねている点で、読み手に説得力を持って迫ってくるのだと思います。

私自身の「挫折」を振り返ってみると、挫折はたくさんありますが(笑)、やはり一番大きかったのは27歳まで7年間受け続けた司法試験を諦めたことです。元々、法律の世界で物事を突き詰めて考えるのは好きだったのですが、マルバツの世界の試験に臨むのは苦手でした。その適性のなさに薄々気付きながらも、中学校の警備員というフリーターをしながら、まともな就職もしないで試験を受け続けてしまいました。

受験生を続けていると、自分が実際にはフリーターではあるのですが、「将来の法曹の卵なんだ!」という空虚なプライドだけで、社会にぶら下がっているだけの状態に言い訳をつくってしまいます。その状態が長く続くと、その状態に安住してしまうのですね。

結局、最終的にその状態から抜け出せた要因には、3つあったと思っています。

1つは、自分なりには最後の年、それまでになかったほどに一生懸命に勉強したことです。試験をゴールとした勉強ではないことは分かりつつも、司法試験の全科目・全論点について自分の納得の行く学説ですべて解答をつくりました。・・・実際には、試験合格のためには、「受験生が納得する学説の合理性」などどうでもよくて、「試験に受かるために合理的な学説」を効率的に覚え込むことが重要なのですが、ともかく、自分が納得できる勉強はやりました。

2つ目は、周囲に支えられたことです。家族は、私が学歴校を出たにも拘わらずフリーターの状況でも、納得の行く勉強を行う姿を容認してくれました。また、すでに試験に合格した親友が、週1度会ってくれて勉強会を開いてくれ、さらには、多忙なサラリーマンの状況であるにも拘らず一緒に試験を励ましあいながら受験した親友もいました。他にも、直接勉強の形を取らなくても、本当に親身になって私のことを案じてくれる親友もいました。そして、何より、試験に落ちて来年の受験を考えていたとき、親友のお母さんに電話したときが決断のときでした。「来年受験して受かると思う?」と聞かれたのです。そのとき、過去1年間一生懸命頑張ったことを振り返り、「いや、落ちる」と思ったのです。その瞬間、7年間積み上げてきたものが一気に崩れ落ちる感覚に襲われると同時に、何かとってもホッとした気持ちになりました。そして、「いや、落ちると思います」と電話で友人のお母さんに答えると、「じゃあ、やめなさい。私は、あなたが弁護士にならない道を選択することを本当に嬉しく思うの」と語ってくれました。この電話の会話は、人生の本当に大きな転機の1つでした。

いずれにしても、思い返せば、本当にかけがえのない人たちに囲まれていたものです。

そして、3つ目の理由は、受験を続ける傍ら行っていた警備員の仕事に限界を感じたことです。警備の仕事は、中学校内に異常がないかどうか、生徒が帰った後、1時間に1回程度巡回し、あとは警備室に常駐することです。その警備室在室の際に勉強することが許されるという訳です。私は、特に指示があったわけではないのですが、自分の警備員の仕事をすべてマニュアル化してチェックリスト化しました。そのチェックリストをすべて埋めて行けば、完全に仕事をこなせるにようになったのです。仕事が完璧になってしまった時点で、私にとっては、この仕事が自分を成長させてくれるものでないことを肌で感じました。いつかは抜け出ないと自分は成長から取り残されるという思いを実感し、そのことも受験をやめる1つの切っ掛けとなりました。

元々、私が弁護士になりたかったのは、高校生の頃、漠然と、「人のためになる」職業に就きたいと思ったからでした。大学に入って、トルストイの「人生論」を読み、「人のために生きる」ことが自分の幸福につながることを確信し、それが人生の意味だと信じるに至り、「人のため」の職業である弁護士になることの理由付けが強化されました。

しかしながら、人事コンサルタントとしての仕事に充実感を覚えている今は、「人のため」というものをもう少し深く考えるようになりました。私が満足感を覚えるのは、実は、「お客様に対して、自らの高度な専門知識を活かしたソリューションを提供することで、お客様に心から喜んで頂けたとき」です。人事コンサルタントの仕事は、まさしくそうした現場に立ち会うことができるものです。

ただ、ここで、弁護士の仕事を考えてみると、弁護士も法律のコンサルタントと言えると思います。そして、弁護士も上記と同じ働き甲斐が得られます。今にして思うと、弁護士に以前あこがれていた理由である「人のため」というのは、上記の意味であったのだと思います。さらに、弁護士の仕事は、事件が起こった後の処理になることが多いのに対して、人事コンサルティングは、経営の未来を切り開く前向きな仕事なので、よくよく考えると、人事コンサルタントでよかったと思えるのです。

私が司法試験失敗という挫折経験を経ていなければ、人事コンサルタントになっていたとしても、その深い意味での充実感は味わえない立場に置かれていたと思います。まさに、司法試験合格の能力に欠けているという事実を受け入れたのは、負けということではなくて、決断でありました。

このようにして自分が挫折を曲がりなりにも乗り切った経験を踏まえると、希望を持てるようになるには、まずは、間違っているかも知れないけれども、自分なりに目標とする職業や将来像を持つことだと感じます。その上で、仮にそれがかなわない場合でも、まずは徹底して自分なりに努力してみて、それでも駄目なら、周囲に客観的に自分の状況をみてくれる協力者を配置しておくことです。

このように考えていくと、やはり、将来の目標を具体的に持っておくことが重要な意味を持つことを学生には教えるべきだと思います。それ以上に大切なのは、その目標は失敗しても気にすることはなくて、その失敗が成功の糧につながることも併せて教えることです。少し前に、「勝ち組・負け組」というカテゴリー分けが流行りましたが、そういうステレオタイプな考え方は合理性を欠くことを教えることが大切です。さらには、よき協力者が人生にとってかけがえのないことを伝え、協力者をつくれる環境を整えていってあげることです。

少し感傷論になりますが、希望が持てない人が増えているのだとすれば、それは悲しいことです。少しでも、希望くらいは持てるような国にしていきたいものです。

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