(by JIN)1Q84(ネタバレ)

| コメント(2) | トラックバック(0)

(by JIN)
村上春樹「1Q84」を読んだ感想を書きます。

「1Q84」については、すでに知恵市場有料版で paco さんが書評をアップ済みです。しかしながら、paco さんとは書評の観点が異なっていますので、私なりの感想を記載させていただきます。

なお、ストーリーの中身が分かるように書かざるを得ませんでしたので、これから「1Q84」を読むことを予定していて、物語の結末を楽しみにしながら読み進めていきたい方は、ここから先を読むのをお控えください。

私が「1Q84」を読んでもっとも考えさせられたのは、次のような「悪」に関するメッセージです。
・悪には様々な形態がある
・悪は相対的な見え方にすぎない
・悪は善人の身近にある
・本当の悪は人間の中にはない

「1Q84」に関するNHKの報道によると、この小説は読者によって色々な受け取り方をする特性があります。そうした中、このブログでは、あくまで「私」の、それも「悪」についての受け取り方についてのみ記載していくことを予めお断りしておきます。

以下、それぞれのメッセージについて記していきます。

■悪には様々な形態がある

悪は、ハリウッドの勧善懲悪映画に出てくるような「1つの対象」に特定しうるものではなく、世の中に偏在しているといってもいいほど、多様な形態を持っています。

この小説で、もっとも中心的な悪として描かれているのが、新興宗教法人「さきがけ」の「リーダー」です。彼は、宗教儀式の一環として、何人もの少女をレイプし、彼女たちを心身ともに破滅させた極悪非道の輩として描かれています。

その「リーダー」の死後、それになり替わろうとする天吾もまた、1つの悪と言えます。天吾は純朴な青年でしたが、虚栄心に駆られて新人作家「ふかえり」のゴーストライターとなる所から悪へと道を踏み外します。その後、坂道を転げ落ちるようにして、どんどん悪のぬかるみにはまっていき、小説の終了時点では、「リーダー」の後釜になることを予想させるような終わり方になっています。

さらに、見方によりますが、必殺仕置き人の役割を果たしている老婦人・青豆・タマルの一味も、「人殺し」という意味においては、悪です。

また、この小説では、編集者の小松のように、虚栄心に駆られた小悪の性格を持つ者がチョクチョク顔を出します。

あるいは、世間一般に存在する悪も見られます。青豆の親友であった、あゆみを殺した犯人もそうですし、小説の冒頭で青豆が殺した男もそうです。

そして、究極的な悪として、リトル・ピープルがいます。その実態は小説の中では明確には示されませんが、人間を悪へと走らせる根源のような存在です。

このように、悪には様々な形態があるというのが、この小説に感じたメッセージの1つです。

■悪は相対的な見え方にすぎない

次に、様々な形態で存在する悪も、実は、1つの見え方として悪とされているに過ぎず、見る角度を変えれば、すべて善にも転換し得る性格を持つものだということです。

このことが最も劇的に表現されているのが、「さきがけ」の「リーダー」です。リーダーは、老婦人のターゲットとされた際には、これ以上ないほどの極悪人として描かれます。無辜の少女を拉致してきて、宗教的儀式という正当化の名の下にレイプして彼女たちを心身ともに破滅させるというものです。しかし、青豆がリーダー殺害のためにリーダーと会った際には、冷徹な青豆も殺すのを躊躇してしまうほど、悪人とは言えない側面が描かれていきます。

また、天吾については、実際には、リーダーと同じようなレイプまがいのことを行うのですが、それが小説の表現上は、あまり悪とは受け取れないような描かれ方をしています。天吾は、物語の最初の方では、虚栄心に駆られてゴーストライターとなるのですが、これは、悪と言えるのかどうか微妙な行動です。物語全体からみて、天吾は悪人と言えるのかどうか微妙に思えてしまう存在と言えます。

さらに、先述のとおり、必殺仕置き人の役割を果たしている老婦人・青豆・タマルの一味も、殺人を犯しているので、法的には完全に「悪」です。しかしながら、極悪非道の輩を成敗するという点では正義の味方であって、小説のニュアンスは彼らを善人とするようなトーンが貫かれています。彼らも、法的な観点を離れて、庶民の正義感情的な視点からは、善とするのもやぶさかでないような存在です。

この小説では、かなりの極悪人が描かれていますので、逆に彼らが善人とも取れることを示されることによって、善悪の境界線の曖昧さが鮮明に描き出される結果になっています。

■悪は善人の身近にある

悪というと、自分を善人と認識している人からみれば、遠い世界の概念のように感じられます。「君子危うきに近寄らず」を貫いていれば、一生関わらなくて済む、といった感覚です。

しかしながら、この小説では、悪は、善人のすぐそばに転がっていることが示されます。そのもっとも端的な例が天吾です。天吾は、小説家になるわずかな可能性を模索し続けているしがない予備校の講師です。それが、ちょっとした虚栄心から、文学賞受賞作品のゴーストライターとなることを決めます。そこから、どんどんと道を踏み外していき、最後には巨悪へとなっていくのです。

ゴーストライターになる経緯も、海千山千で欲深い編集者の小松にそそのかされて、ということで、そのそそのかされ方が、「普通の人なら、こんな風に自尊心をくすぐられたら落ちちゃうよな・・・」という感じなのです。ですから、どうしても、普通の人=自分も、状況によっては悪人になってしまうのかも・・・と思わされてしまうのです。

ちなみに、イシューからは、ずれてしまうのですが、なぜ青豆が最後に自殺するかについて私の仮説があります。青豆は天吾のことを心から愛していました。であれば、生きて天吾と会って愛し合いたいと思うのが自然です。にも拘わらず自殺してしまうのはなぜか?

私は、天吾が巨悪になっていくのを青豆が本能的に察知したからではないかと思うのです。そうすると、その巨悪が老婦人の知れる所となり、結局、青豆は天吾を殺すミッションを背負うことになってしまう。その事態を避けるために青豆が取った手段が自殺であった・・・それが、私の仮説です。

イシューからの脱線ついでに、もう1つの仮説です。それは、「天吾」というネーミングです。私は、これを「天は吾(われ)にあり」と読みました。物語の最初の方では、小説家としての成功を収める上での「天は吾にあり」ですし、最終場面では巨悪としての「天は吾にあり」です。

「天吾」のこのような私の解釈は、「路傍の石」の主人公である「吾一」から来ています。吾一は、自分の名前の平凡さに悩むのですが、先生から、「吾(われ)は世界で一人しかいない」という意味を持つ立派な名前だと諭されるのです。この「吾一」のエピソードから、先ほどの「天吾」の解釈を連想しました。

■本当の悪は人間の中にはない

この小説には、様々な悪人が登場します。しかしながら、先述のとおり、彼らは、見方によっては善人とも受け取れてしまう存在ばかりです。

そうした中で、リトル・ピープルだけは毛色を異にしています。リトル・ピープルは、巨悪である「さきがけ」の「リーダー」をつくりだした根源です。そして、「リーダー」亡き後は、新たな巨悪である天吾に乗り移ろうとしています。彼らには、「善」のかけらは、これっぽっちも見出せません。

そして、悪人は、所詮、リトル・ピープルに乗り移られて、いわばリトル・ピープルの「乗り物」として悪を振る舞っているに過ぎないのです。その意味では、悪の究極の根源は、人間の中にはなくて、人間は、悪の根源が一時的に通り過ぎる器のようなものに過ぎない。人間そのものは、いつでも、善にも悪にも転びうるし、見方によって善とも悪とも受け取れてしまう、そういう存在である、とこの小説はメッセージを出しているように読み取りました。

この悪の究極的根源としてのリトル・ピープルは、キリスト教でいえば、サタンのような存在なのだと思います。

宗教をもたない私としては、究極的「悪」は、人間の共通認識の中にある「悪」概念のようなものをイメージします。個別の人間を離れ、抽象的概念として捉えられる「悪」です。

以上が私の「1Q84」の感想ですが、「1Q84」は私にとって、「悪」について色々と考えさせられる切っ掛けを与えてくれた本でした。特に、悪の相対性を示してくれたことで、自分自身、いつ悪に陥るか分らないことを自覚すべきことを教えられ、また、他人の悪を見たときも、それは私の主観的な悪概念に過ぎないと心しなければならないことを教わりました。

(by JIN)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://w0.chieichiba.net/mt/mt-tb.cgi/837

コメント(2)

なるほど、当然のことですが、人によってずいぶん読み方が違うものですね。小説だから、そこがいいところなんですが。

●「リーダー」は悪なのか?

僕が読んだ限り、リーダーが悪の象徴として描かれているという理解はできませんでした。DVの加害者として「あちら側」に送られる男たち把握として描かれていると思いますが、リーダーは違う。そもそも悪ではない。というのも、もし「悪」なら、さきがけから武闘派が分離して自滅するというストーリー入らないのではないかと思います。

●リトルピープルは悪なのか?

これも、よくわかりませんが、これまでの春樹作品との関係で言えば、「羊」もそうですが、清濁併せ持つ人間の心の支配者というような存在で、必ずしも悪だとは、僕は理解していません。

●天悟は「リーダー」に「取って代わる」のか

天悟は「リーダー」と同じことをしたものの、それがそのまま取って代わるものなのかは、小説中からは不明、と言うこのあとどうなるのか、とても気になります。

●天悟のリライトは悪ではない

天悟がふかえりの小説をリライトしたことを「虚栄心に駆られて」と理解していますが、これは違うと思います。天悟がリライトしても、なんの「虚栄」も得られないし、元々やりたくなかった。作品そのものにこころを奪われて、リライトをしているのですから、作品にこめられたリトルピープルからのメッセージが、天悟を通じて外に出たがっていた、というように僕は理解しています。天悟は、山羊と同様、リトルピープルの媒介者に過ぎず、媒介者なのに、大きな物語に巻き込まれていくのは、「羊をめぐる冒険」の「先生」と同じモチーフです。

ということで、けっこう解釈が違いますが、今度お会いしたときにいろいろ話しましょう(^-^)

>・本当の悪は人間の中にはない

ここんところが、よくわかりませんね。

コメントする