(by JIN)孤独死@2

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先日、大原麗子さんの訃報に接し、「孤独死」について記事を書きました。
http://www.chieichiba.net/blog/2009/08/by_jin_40.html

先日の記事は、「孤独死」は「あってはならない」ことを前提に立論しました。ところが、このブログを愛読してくださっている方から、「私は孤独死しても良いと思う」とのコメントを頂きました。このコメントは、立論の前提を突き崩すものです。色々な価値観があることを念頭に置かずに記事を書いてしまった結果です。

本稿では、孤独死を肯定する見解も念頭に置いた上で、社会は孤独死にどう向かい合うべきなのか考察します。

まず、基本的な前提として、社会は人々の幸福追求最大化支援を使命とすることとします。この点、社会には人々の生命・身体・財産を守る最低限の役割しか求めない考え方もあり得ますが、個人主義化が進み、人間関係が希薄化している中では、やはり、社会の側から個人に対して手を差し伸べていく役割が求められていると考えます。

その上で、改めて大原麗子さんの孤独死の問題に立ち返ってみます。

すると、問題の本質は、「孤独死したこと」そのものにあるのではないことが見えて来ます。大原さんは、もしかしたら孤独死を望んでいたのかも知れず、そうだとすれば憐れみの情は生じて来ません。

問題は、「孤独死したくなかったのに孤独死したのでは?」と想像させられる点です。そこに悲しみを誘うのです。本当は亡くなる直前、助けを求めていたのではないか・・・亡くなった後、美貌がみる影もなくなる2週間もの間放置されることまでは想像していなかったのではないか・・・と想像してしまうのです。

このように考えると、孤独死しなくても良い選択肢を提供してあげることが解決策だったと気付きます。その選択肢を示された上で、希望によって孤独死するのは、それはその人の幸福を妨げることにはなりません。

ただ、実際上の問題は、その先にあります。孤独死しない選択肢に対して、「ノー」と主張する人に対して、その真意性をどう確認するか、です。もしかしたら、照れ隠しのように言っているけれど、しばらくすると考えが変わるかも知れません。それを一回選択のタイミングを提供しただけで自己責任に帰してしまっては、本人に酷な場合も考えられます。

私は、この問題に関しては、社会の側から、多少お節介な位に関わっていく程度で良いのではないかと思います。「1人がいいんだ!」と突っぱねている人に対しても、コミュニティ参加にちょくちょく声をかけるようなイメージです。その理由は、昔は自然に日本社会にあった近所付き合い等が希薄化していて、お互い多少お節介な位で丁度よい感じがするからです。

・・・ただ、この辺りの感じ方は、人によって異なるようにも思います。

by JIN

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