(by paco)「人生のwhat?を見つける」セミナー&コミトンサンプル版

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(by paco)「人生のwhat?を見つけるセミナー&ワークショップ」、開講が明後日に迫りました。開講前に再度ご紹介です。

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自分の人生の目標は何かとか、ライフワークは何かとか、そういうことについて考えたことはありますか?

グロービスマネジメントスクールのクリティカルシンキングクラスでは、僕のクラスだけの特別講義として、「人生のwhat?を見つける」という話を毎回しています。

クリシンはあくまでHow?の勉強です。どのように考えると確実に考えられるか、よい結論が出せるのか。マーケティングもファイナンスも人材戦略も、みなHow?が中心です。でもそのHow?の力を、何に活かすかは、what?の問題で、自分のライフワークとしてどんな領域を持つべきか、がわかっていないと、せっかく身につけたHow?の力も、会社という「誰か」のために使うことになります。会社が目指すものと自分が目指すものが一致していればいいのですが、自分のライフワークがなにかが明確でなければ、そもそも一致しているかどうかを知ることもできません。
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という口上でご案内しています。7月末までの全5回、特定の回だけの参加もできますので、興味のある方はぜひご検討ください。今日明日の申し込みでも、ぎりぎり初回からお受けします。

さて、そのセミナーの前準備として、先週と今週のコミトンを書いてきたのですが、サンプル版ということで、先週号を公開します。テキストとして使用する「日本の難点」(宮台真司著)を、まずは以下のように解題したのですが、これをベースにセミナーに入りたいと思います。

▼知恵市場有料版[知恵市場 Commiton] サンプル版
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[知恵市場 Commiton]410【日本の難点-1】「社会の底」は抜けているのか?

(by paco)6月30日から、「人生のwhat?を見つける」セミナー&ワークショップを始めます。そのテキストとして使うのが、「日本の難点」(宮台真司-幻冬舎新書)です。毎回、1章を取り上げ、テキストにコメンタールを加えながら、社会を見る軸(イシュー)を発見し、宮台の軸の有効性/無効性と、別の軸の発見などを行った上で、僕を含めた出席者がそれぞれの見解を考えるという手順で進めようかなと思っているところです。

今週は、そのための準備もかねて、「日本の難点」の序章と第1章のキー概念について、整理しておきたいと思います。セミナーに参加する方にも今回の記事を転送し、コメンタールの参考にしてもらおうと思います。

「はじめに」の中で、最初に提示されるイシューは(p.4)

「欧米的普遍主義から普遍的普遍主義へ」
「リベラリズムの普遍的構想から、政治的構想へ」
「個別主義から個別主義的普遍主義へ」

とか呼ばれる状況だと宮台はいきなり提示します。たぶん、何をいっているのか、さっぱりわからないと思います。実は、僕も同じです。

その後、このイシューが宮台の手で解題されるのですが、こういった解題にもかかわらず、わかりにくいところを、よりかみ砕き、いわんとするところを解釈として提示したモノをコメンタールと呼びます。西洋哲学では、ギリシャ依頼のさまざまな哲学者の著作や発言に対して解釈を加え、その解釈の仕方のセットが、後世の哲学者の思想体系になるという構造があります。たとえば、中世の哲学者がローマやギリシャ時代の哲学者を参照してコメントし、場合によってはこれらの過去の哲学者を否定した上に、それとの際の中に自分の哲学を述べる、というような方法です。こういう方法をとることで、後世の哲学者は自分のポジションを、過去の哲学的巨人(よく参照される哲学者)の相対位置の中に位置づけ、さらに、飛躍がある場合、どの方向にどのぐらい飛躍して自分の地歩を固めようとしているのかを示すことで、独自の哲学の提示が可能になると考えます。

このような伝統があるので、ヨーロッパではギリシャから現代に至るまでの哲学が相対として体系化されていて、それ故に、どれだけ多くの哲学者が登場しようと、体系化と評価が可能であり、哲学的知見の参照と利用を容易にしている、ということが言えます。

逆にこの体系にはいらない思想体系、たとえばインド哲学や中国哲学などは、理解が難しくなり、理解できないという異質性が高まる傾向があります。歴史の経過とともにヨーロッパの思想体系が豊かになればなるほど、それとはまったく異質な哲学と「混じり合わない感じ」が強調される結果になると同時に、欧州の哲学体系が体系立っているがゆえに、タコツボ的で箱庭的であると感じられるようになるのも事実です。こういったタコツボ感が、多くのヨーロッパの哲学者をアジアの虜(とりこ)にしてきました。

宮台は社会学を専門にする学者ですが、すべての学問は哲学から派生的に生まれたものであり、特に社会学と心理学、脳科学は、哲学と関係が深い学問です。宮台の思想も、ヨーロッパの哲学的な伝統を基礎に語られており、その意味で、コメンタールを軸にした著作の分析は理解のために有効です。

ちなみに僕は大学4年間をかなりアカデミックな哲学研究の世界で過ごしたので、こういう考え方や手法の訓練はこのときに身につけました。

さて、上記のイシューに戻りましょう。

宮台のいう「普遍主義」とはなんでしょうか? 普遍的とは、「いつ、どこであろうと、このことは言える」というような、明解な判断をさします。もうちょっとかみ砕くと、たとえば「人を殺してはいけない」ということは、いつ、どんな場合でも、誰に当てはめても、正しいと言えると考えることを「普遍主義」といいます。

そんなことはあたりまえじゃないか、「人を殺してはいけない」のは、人間にとって自明の理だとあなたは考えるかもしれませんが、それは単純すぎる発想です。だとしたら、なぜ戦争で人を大量に殺すのは合理化される(合理的に考えてよしとされる)のか。誰かを殺したからといって、なぜその犯人を死刑にすることが合理化されるのか。裁判で死刑判決が確定し、法務大臣がサインすれば、処刑のボタンを押した刑務官や銃殺毛を実施した兵士が殺人罪に問われないのはなぜか? 死刑にしてしまったあとで、その人が無実とわかったからといって、裁判や処刑に関わった人は死ななくてもいいということが合理化されるのか。いずれも説明できません。

「人を殺してはいけない」という、単純明快なことさえ、それが「普遍的に=いつでもどんな場面でも」正しいということは、理論的にできない。まして、ほかの多くの倫理、価値は、普遍化できない、というのが、1960年代以降の哲学的、社会学的な検討(コメンタール)の結果、わかってしまったことなのです。すべての価値は相対的であり、よいことと思われていることも、ほかのどれかより「いくらかよいこと」に過ぎず、もしかしたら「もう少しはよいこと」がほかにあったり、Aという社会セクターにはよいことでも、Bというセクターにはよいこととはいえない、というような、局地的な価値観に過ぎない、ということが明らかにされたということです。

このような状況を、ポストモダン(後期近代)と呼び、価値の普遍性があると信じられていた時代(モダン=近代)と区別するのが、社会学的、哲学的知見です。

つまり、モダンとは普遍的、絶対的な価値観や判断が存在すると考えられていた時代であり、それが崩壊した時代がポストモダン、そして今、僕たちはポストモダンにあり、そのポストモダンをどう乗り越えるかが、今僕らに突きつけられている課題だと宮台はいっているのすね。

こういった基本的な知見をどう理解し、それをもとに行動するかによって、その行動が時代的に有効なものになることもあれば、道化師のようになってしまうこともある。僕が「人生のwhat?」と呼ぶものは、こういう社会状況の中で、道化師になるのではなく、有効なアクションになるようなwhat?を探し、そこに向かっていくことであり、なんでも信念を持ってやればよいと言うわけではないと考えています。ピントがずれちゃっていると、滑稽なだけなのです。

では、ポストモダンの文脈の中で、今何をやっていくべきなのか。

「はじめに」のp.5で宮台は、先に答えを提示しているのですが、

「普遍主義の不可能性と不可避性」
「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」

という言い方をしています。ここにコメントすると、「普遍主義の理論的不可能性」とは、ポストモダンそのもの、「絶対的に正しい価値判断というのは、理論的にあり得ないのだ」ということであり、「普遍主義の不可避性」とは、それにもかかわらず、普遍主義を実際にはけて通れない、ということです。特に「普遍主義の<実践的>不可避性」となると、「実際の行動に基づいて普遍主義の行動をとっていくことが避けられない、それ以外に方法はない」ということを意味しています。

もうちょっとかみ砕いてみましょう。すでに万人に、あらゆる場面に当てはまる絶対的な価値観がないことがわかってしまったのが今の時代。でもだから問いってそれでよしとするのではなく、実際の行動で絶対的な価値観を体現していかなければならない、というのがここでいっている宮台の趣旨でしょう。これがポストモダンに入ってすでに3--40年という今の時代の最も重要な課題だと宮台はいいます。

もっと具体的にしてみましょう。

「絶対的な価値」が失われたことについて、「国旗を形容させる、校歌を歌わせる」「愛国心を持たせる」という方法で解決しようとする人たち(保守・右翼)がいます。本音をいえば、教育勅語や軍人勅諭を復活させて、学校で唱和して覚えさせるというようなことを考えがちな人たちです。こういうやり方は、すでに普遍主義(絶対的な価値観)が崩壊しているのに、それを認めようとせずに、あるいはうすうすわかっているにもかかわらず、単純に文言化された価値を学校で子供に植え付ければ済む、と考える行為です。こういった保守・右翼を、宮台は「へたれ保守」と呼んで軽蔑していますが、なぜへたれなのか。

すでに「絶対的な価値」が失われたことは、1960年代、今から50年も前に理論的に明らかになって、さらにそれから10年ほど遅れて、哲学者の間だけでなく、世界中の一般市民の間にも知れ渡ってしまった。この状況を宮台は「社会の底が抜けた」と表現します。絶対的な価値がないことがわかってしまったのに、子供たちにそれを教え込んでも、いずれウソがばれてしまうのは間違いない。ウソがばれたときに、子供たちは大人たち=社会を信用しなくなり、社会不信が広がってかえってひどいことになります。状況をかえってひどくするような会を平気で提言し、じっさんしているような連中は、頭が悪いか、本当の保守ではない(つまり、へたれ)と宮台はいうわけです。

では宮台が提示する解はなんなのか。

これについては、第2章の教育論の中で、「スゴいやつ」による「感染」という方法しかあり得ない、といっているのですが、これもまたわかりにくい答えなので、改めて第2章を解説するタイミングで、話したいと思います。

宮台の提出する解を参考にするにせよ、しないにせよ、今の時代の文脈にあった「人生のwhat?」をつかむためには、「へたれ保守」のような復古的なやり方をしても、ムダな努力に終わるばかりでなく、害が多いことがわかります。「こんな活動をやりたい」と思ったときに、それがポストモダンの文脈の中でどのように位置づけられるのか、という点で意味があるなら、それはセンスがいいwhat?だと考えられます。

あえて解題するなら、僕がやっている「ヤマガラの森」は、「普遍主義の実践的な不可避性」に該当する、筋のいい活動ということができます。「ヤマガラの森」の大きなねらいは、自然は人間の力で豊かにでき、人はそれをやっていくべきだという普遍性を、理論的にではなく、実践的に見せることにあります。理論的には「人間は自然と関わるべきだ」という知見を普遍化する(いつでもどこでも当てはまると考える)ことはできませんが、実践的に見れば、それを人に理解させ、広め、まるで理論的な真実性を含んでいるかのように、人に理解(=実感)させることができる。「人間は自然と関わるべきだ」という命題の正しさを理論的に説明することはできなくても、この命題を正しいと考える(感じ、理解する)人を限りなく増やすことは理論的に可能です。理論的な真実ではなくても、実践的に真実になるなら、それはすでに実践的な普遍性を持っていることを意味しているのだということができるわけです。

今の時代の中で人生を賭けるに値するwhat?とは、こういう理論的・実践的構造を持っているものであるべきでしょう。自分以外のおもしろそうな人がやっている行動についても、この構造を確認すれば、センスのよさがわかります。誰かの勧誘を受けるかどうかも、こういった価値判断に基づいて行えば、失敗が減ります。

今回は「普遍主義の不可能性と、実践的不可避性」というところまで(序章)分解してきました。この本には興味深いイシューがたくさんちりばめられているので、毎回なるべく時間をたっぷりとりながら、セミナー&ワークショップを進めていこうと思っています。
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