(by JIN)心の琴線に触れる「物語性」

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(by JIN)
最近読んだ本「宗教と国家」は、20世紀の紛争解決に宗教が活用された事例がいくつも紹介されていました。たとえば、戦後のフランスとドイツの和解、南アフリカのアパルトヘイト撲滅、フィリピンの民主革命、等です。
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解決に宗教が役立った理由の1つとして挙げられているのが、宗教の持つ「物語性」が、紛争当事者の心の琴線に触れたのではないか、というものです。人の依って立つアイデンティティは、1つの「物語」であると考えられます。「どこで、どんな環境で生まれ育ち、どんな信念の元に生きているか?」という一連の生き方は、1つの「物語」と捉えられます。他方、宗教も、その起源には「物語」があります。多くの宗教の「物語」の骨格は、「苦しみ」とそこからの「救済」です。この「救済」は「紛争の解決=平和」と結び付くことがあり、それが紛争当事者の心の奥底にある「物語」と触れ合うとき、紛争解決の糸口がつかめる場合がある、というのです。

この見解には、違和感を覚えながらも、納得できる部分もあります。ただし、納得できるのは、一定の条件の下で、という留保がつきます。今回は、その辺りの事情を掘り下げてみます。

■「物語性」への違和感

私は、日々、法人営業の最前線と共に仕事をする本部が職場です。法人営業の現場では、顧客のトップ・キーマン・窓口、競合の動向等、裏から表から情報収集を行い、周到・効果的・タイムリーなアプローチをかけていかないと、競合に打ち勝っていくことは出来ません。そこで勝敗のポイントを分けるのは、顧客関係者のビジネスパースンとしての利害に対して、どこまで響く提案ができるか、です。たとえば、キーマンの至上課題がコスト削減であれば、そこにいかに響く提案ができるかが最重要課題になります。

こうした現場に身を置いていると、相手の「物語性」に触れることが解決の糸口になる、という見解が嘘くさく思えるのです。営業の場合、「お客様と話が合って盛り上がった」というのは、評価の対象になりません。あくまで顧客のビジネス上の利害に触れる有効な提案ができたかどうかが決め手になるのです。これを国家の指導者層に当てはめても、まずは自身の保身がもっとも関心の高い事柄ではないかと考えてしまいます。そうすると、「物語性」が解決のポイントになる、というのは、ちょっと身を引いて考えてしまうのです。

また、「宗教」の物語性を持ち出していることにも引っ掛かりを感じます。周知のとおり、宗教は、その対立が、多くの紛争を生み出して来ましたし、今現在も生んでいます。古くは十字軍はじめ様々な紛争がありますし、現在ではパキスタンしかりアフガニスタンしかりイラクしかり、です。宗教は強い「物語性」を持つが故に排他的な性格を併せ持つことが多く、それが紛争を生み、または紛争を助長させる結果となっています。私は、この本を読むまでは、宗教は紛争助長の側面にのみ着目していたため、紛争解決の役割を果たすという見解は、すぐには飲み込めませんでした。

■宗教の物語性が心の琴線に触れるとき

しかしながら、何よりも、「宗教と国家」に、宗教が紛争解決に役立った事例が事実として紹介されていたことが、そうしたケースが存在することの納得感につながりました。

私は、これらのケースに共通するキーワードとして、「情と理」ということを思い浮かべました。「情と理」は、リーダーシップ論において、リーダーの特性として備えるべき要件として挙げられているものです。つまり、リーダーとして人を動かすには、ビジョンを掲げてそこに向けた目標設定・目標遂行プロセスを明晰に語れる「理」と共に、人間的な魅力である「情」の部分と、両方が必要、というものです。

紛争当事者に対する働きかけにおいても、「情と理」の両面からのアプローチが有効なのではないか、ということです。「理」の部分は、紛争当事者の現実的な打算の部分です。紛争解決が紛争当事者にもたらす具体的な政治的メリットを示す、ということです。そして、「情」の部分に、まさに「宗教の物語性」がヒットする可能性が含まれています。宗教的な確信として、「紛争解決=平和」が絶対的な善であることを前提として接し、紛争当事者の「心」を揺り動かすのです。

■前提条件

以上の思索を踏まえると、宗教の物語性が心の琴線に触れるには、次の3つの前提条件が必要と考えます。

1つ目は、最終的な意思決定ができるトップへの働きかけであることです。なぜなら、「情」は極めて個別的なものだからです。ボトムアップのアプローチで下の者を「情」で巻き込んでも、それがトップにストレートに伝わる可能性は極めて低いです。

2つ目は、現実的な打算も抱き合わせで提案することです。紛争当事者も、神ならぬ人間ですので、いくら理想を「情」に働きかけても、政治的なプラスアルファが保障されなければ、イエスの回答を得ることは困難です。ただし、「現実的な打算」の具体的な中身については、宗教者が調整・提案をする必要はありません。別のルートからの提案でも構いません。宗教者に求められるのは、そうした現実的な打算のルートを否定しないという態度です。最終的な「紛争解決=平和」を実現するには、多少の人間としての欲には宗教者として目を瞑るということです。

3つ目は、宗教者は、紛争当事者から政治的な中立を保つ、ということです。「国家と宗教」に挙げられたケースにも、宗教者がその多くの役割を、紛争当事者を解決のテーブルに着かせることに徹した、というものもありました。一方当事者に宗教が肩入れすると、紛争対立を助長させることになってしまいます。強固な物語性を持ちながら紛争に介入しつつも、中立であり続ける、微妙なかじ取りが、紛争解決成功には求められます。
(by JIN)

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コメント(3)

物語性とビジネスの成否の話ですが、僕の理解についてちょっと話します。

JINさんは物語の内容を少し狭く捉えているように思います。宗教の持つ物語性は、民族のもつ「大きなサクセスストーリー」のようなまっとうなものばかりではありません。聖書にしても、仏教典にしても、多くのボリュームを割いているのは愚にも付かない些末なエピソードで、それらエピソードの相互には、矛盾だらけです。若いうちは聖書を読んでもひどく矛盾した荒唐無稽なエピソードばかりで、もっと体系的なものがほしくなるのですが、些末だからこそ、今瞬間の自分が置かれている状況や情動、矛盾を重ねることができます。そしてその矛盾や情動の中でも、大きな「善なる」ストーリーにつながっていることを感じられます。これが宗教の持つ物語性です。

個別の仕事であっても、個別のマネジャーの感情であっても、その個別性と普遍性を宗教の構造を参考に、うまく一致させることができれば、その物語は相手の心を打ち、説得力を持つ、と思います。物語と利害のロジックを使い分けるのではなく、利害のロジックを物語の中に編み込むことはできると思うのですが、それは多くの場合、かなり難しいことで、成功しにくいのでしょうね。

pacoさん、コメントありがとうございます。
テーマを1人で抱え込んでいたので、広い視野を与えていただいて、目から鱗が落ちました。

聖書は一度読んだのですが、おっしゃるとおり、物語には些事が多くて、矛盾も多く、とても「苦しみ」と「救済」だけにスポットを当てているとはすぐには読みとれませんね!だからこそ、逆に、自分に当てはめやすい面もあって、単純な論理よりも説得力があり、人の心を捉えることがある、ということですね。納得です。

pacoさんの後段では、「物語=情」「利害=理」と割り切るのではなくて、そもそも宗教(物語性)は情・理一体のものであって、それが人の心をとらえるかどうかがポイントというように理解しました。これも納得です。ただ、政教分離原則等を考えると、宗教(物語性)は「情」の部分と捉えた方が分かりやすいようにも感じられますが、それは捉えようの違いであって瑣末な論点と思います。問題は、pacoさんご指摘のとおり、「物語性」をどう説明しようと、「宗教が紛争解決に役立つのは困難」という認識ですよね。宗教は使いようによっては紛争解決助長にもつながりかねないので、もろ刃の剣ですね。

>政教分離原則等を考えると、宗教(物語性)は「情」の部分と捉えた方が分かりやすい

政教分離をどのように運用するかは、幅広い説明があり、グレイゾーンがあります。JINさんも「宗教家は紛争当事者を交渉のテーブルに着かせることに集中する」と指摘していますが、こういう役割なら、政教分離には反しないわけで、テーブルに着かせる際に、単に情だけでなく、さまざまなロジックも使っていくことになると思います。

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