(by yuki)市場で見かけた死

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(by yuki)最近、Jeffrey Sachsの「貧困の終焉」という本を読んでいます。500P以上にも渡る本で未だに読み終わってはいませんが、読み進めながら、「『全人類のうち10億人が1日1ドル未満で生活している』ことを知っている日本人はどれくらいいるだろう?」「自分たちはどれほど恵まれた世界に生きているか自覚している日本人はどれくらいいるだろう?」と考えずにはいられませんでした。この手の話に興味はあったけど、様々なデータを数字で見せつけられると、「知らなかった自分」にショックを感じながら、数年前の出来事を思い出している自分がいました。

「亡くなっている人を見かけた」皆さんはこの言葉からどのような死を想像するでしょうか?
家族に見守られ天命を全うした人。病気により病院のベッドで息を引き取った人。交通事故や事件や天災で不慮の死を遂げた人。自ら命を絶った人。
私が思いつくのはこれくらいでした。

数年前、その頃いつも行っていた市場の入り口で、一人の男性(物乞い)が横になっていました。目の前には空き缶を置いて、誰かに恵んでもらえるのを待っている。彼はただ横になり寝ていました。

二日目も、三日目も、彼は同じ場所で同じように横になり寝ていました。

四日目、彼も彼の荷物も、その場から全てが消えていました。彼は亡くなっていたのです。でも誰もそれを気にとめる人がいなかった。何日も前から亡くなっていたのに、彼は市場の入り口で誰にもその死を気づかれることがなかった。誰にも気づかれずにその場にいて、誰にも気づかれずにその場からいなくなった。

その事実を知った時に感じた「怖さ」とも「驚き」ともつかない感情を、何年経った今でもハッキリと覚えています。

当時、私は18歳。日本でバイトや遊びに明け暮れていた高校卒業直後の私は、それまで苦労することなく両親に守られて生きてきました。食べ物がなくて飢え死にするとか、大した病気でもないのに病院に行くお金がないから死ぬとか、そんなことは考える必要がなかった。物質的にも経済的にも恵まれた日本で生まれ育った私は、どんな生き方ができるかではなく、どんな生き方をしたいかを選択できる立場にいた。そして、それが当たり前だと思っていました。
だからこそ、言葉も分からずに飛び込んだ場所で見かけたそんな光景を、現実として受け入れるまでに相当な時間がかかりました。市場で見かけた彼は、私と同じくらいの歳に見えた。同じくらいの時間を生きてきた彼に、風邪をひいた時に看病してくれる家族はいたのか?新しい制服を買って学校に通った思い出はあるのか?卒業後は何をしたいか悩めるという幸せはあったのか?

私は2002年以降の中国しか見ていませんが、もっと前から中国に留学していた日本人の先輩たちは「昔はもっと見かけたよ」と言っていました。
2008年現在の中国。私が生活している場所で、道端で死んでいる人を見かけることはありません。本当はいるのかもしれませんが、学生から社会人になって行動する場所が変わり気づかないだけかもしれません。日本から見た中国は、先進国ほどではないけれどインフラの整備も進んできて、一部ではありえないほどの富をもった人がいて、全体的に豊かになってきている、というものではないでしょうか。確かにその通りなのですが、その陰で未だに底辺で生活している人がいるのも事実なのです。中国ですらこんな状況なのだから、「貧困国」と呼ばれる国や地域では、きっと更に辛い生活環境に身を置いている人はいっぱいいる。忙しい毎日に流されると、そんな現実をうっかり忘れてしまいます。

数年前と同じ光景を見たとしても、あの頃のようにショックを受けることはないかもしれません。そんな自分に、ちょっと危機感を覚えます。でも、こうして情報発信していくことで、「知らない/知ろうとしないことは罪なんだ」と自分に言い聞かせていこうと思います。

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