(by クヌギー) 本読みが本を読まないとき 第6回 待つこと

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(by クヌギー) 待っているときは、本を読めません。自分が待っているものに関心が向いているので、集中できないのだと思います。たとえば、よく知り合っていない人との待ち合わせといった、ちょっとした緊張を伴う待ち時間とか、映画やお芝居がはじまるまでの時間とか。

それは当たり前のことなのですが、はっきり自覚したのは、今年に入ってからです。

1月に父がある手術を受け、そのときの麻酔から覚めないということがありました。
手術自体は予定よりも短い時間で成功したのですが、想定されていた時間になっても、父の意識は戻りませんでした。手術中の麻酔のチャート、術前術後の検査結果、どれからも目覚めない理由が見つからず、なにか身体に重大な病気があって意識がないのではなく、ただ目覚めないだけとみられました。それまでに同様の手術を数百件手がけてこられた主治医の先生にとっても、このように目覚めない例ははじめてとのことでたいへん困惑されている様子でした。
けっきょく父は術後5日目に意識が戻りましたが、それまでの間、母と妹、私の3人は、父が目を覚ますのをひたすら待っていたのです。

いつまで待てばいいのかわからないものを待つことは、それまでにあまり経験したことがなかったのですが、時間が過ぎるのが遅く感じられました。
若い担当医の先生が、ある症例として、2週間後に意識を取り戻したケースがあることを教えてくださいました。それを聞いて、「あと1日2日でどうにかなる問題ではない。長丁場だ」と割り切れたのでしょう。休めるときに休むこと、なるべくふだんどおりの生活をすること、楽しみも必要であることを心がけて待つことにしました。

そこで私は、ICUで父に付き添っているときに、そのとき締め切りが近づいていた、ある本を紹介する原稿を書こうとしました。ところが、紹介する本とノートを膝の上に広げて読み始めたのですが、本の内容がちっとも入ってきません。大好きな作品で、中でもいちばん好きなくだりを選んでも、活字を目で追い続けることができないのです。

その病院のICUでは、特別な検査の時間などを除いて、いつでも家族が患者に付き添うことができました。このことは家族にとってありがたいことでした。近くで過ごしていると、父が目を開く瞬間が今めぐってくるかもしれないと期待が持てます。
そんな心待ちにしているものがまさに今くるかもしれないというときに、なにか別のことに関心を向けることは難しいと気がつきました。

ところで、その原稿の選書のテーマは「めざめる」でした。父が目覚めることを待ち続けている最中に、です。それでも原稿を落とすのは悔しいので、以前その本を読んだときのブログに書いた感想を参考にすることで、無事に仕上げました(ブログを書いていてよかった!)。

父の一件で、「待っているときには、本が読めない」ことともうひとつ、「待つことは、信じること。ただし、信じるかどうかは自己責任」ということに気がつきました。
これは父が元気になった今だから言えることですが、信じなくてはいけないのは、「目覚めない原因がない」「最長2週間」という先生方の言葉ではなく、「父が目覚めること」なのです。
もし父が目覚めることなく最悪の結果になったとしても、先生方にだまされたわけでも、父に裏切られたのでも、私の気持ちが足らなかったのでもありません。そのとき、誰かを責めることも、自己嫌悪に陥ることもなく、その結果を受け止めるには、ただ信じることが必要なのだと思います。

「信じる」って重い言葉です。しかし日々繰り返される待ち合わせも、その相手を信じているから約束もするし、出かけていくのです。
約束の場所に、自分を待っている人がいる。約束の場所に、自分が待っている人が向かってくる。そんな報われる瞬間はささやかだけれど、実は「信じる」という言葉と同じように重く、たいせつなことなのだと思います。


(お知らせ)
“本読みが本を読まないとき”は今回が最終回です。おつきあいいただき、ありがとうございました。7月はお休みして、8月から新しいシリーズを開始する予定です。よろしくどうぞ。

(参考)
原稿を書いていたときの日記。
図書室たき火通信「読み直し中」 →http://takibilib.exblog.jp/7937991/

(1冊)
待つといえば「ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻」20年待ち続けるってすごい。

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クヌギー/功刀貴子

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