(by JIN)源氏物語感想?:田辺聖子訳

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(by JIN)田辺聖子訳「新源氏物語」を読了しましたので、感想を書きます。

一言でいえば、読んで良かった!ということです。やはり、古典の名作というだけあって、読了後は何ともいえぬ達成感がありました。ひとつの世界観に触れた感じです。

ただ、これまでの私の人生経験・知識の乏しさから、もっと知りたい事柄も沢山生じてきました。これからは、さらに勉強して知見を広めていきたいです。

「もっと知りたい事柄」は次の3点です。

?貴族社会の権威の源泉に疑問を持った
?平安時代の男性の幸福について疑問を持った
?原文の書かれ方に興味を持った

以下、3点の具体的な内容です。

?貴族社会の権威の源泉に疑問を持った

源氏物語では、貴族の贅の限りを尽くした生活がリアルに描写されます。

まず、住まいの庭園が豪華です。光源氏は、妻たちの趣向に合わせて、庭を春や秋になぞらえ、船も浮かべられるような池を設けて造園します。

その庭園で、四季折々に様々な宴が催されるのです。宴には、貴族がお供を引き連れて数十人と集ってきて、明け方まで飲み明かします。集う貴族たちは、各々、高価な絹織物に身を固め、香をたきしめています。皆、琴や琵琶等の楽器をたしなみ、または武芸を身に付け、和歌を詠む教養を持っています。

こうした貴族たちの浮世離れした生活を「下々の者」は、「遠い世界のできごと」のごとく、ただドンチャン騒ぎが聞こえてくる・・・といった状況に置かれています。田辺聖子訳の「新源氏物語」では、ただ、「下々の者たちまで楽しそうで・・・」といった記述が出てくるにとどまっています。

また、光源氏が、政治的に放逐されて明石の地にあったとき、「下々の者」と気軽に言葉を交わしそうになったとき、自ら「そんなことではいけない!」と居住まいをただすシーンがあります。

・・・ただ和歌を吟じるのに高じているようにしか見えない貴族も、その生活の基盤は、「下々の者」がこさえた作物や物資に依っています。「和歌を吟じて」いるだけで、どうやって「下々の者」の反感を買わずに生活できたのであろうか?

それが、最初の疑問です。

古代、中国では、悦楽におぼれた王朝は何度となく、例外なく没落しています。

日本ではどうだったのか・・・?

「源氏物語」が書かれたのは、今から千年前の1008年、平安時代の真っ只中です。摂関政治で藤原道長が絶頂であった時期です。武士が力を持って貴族に対抗しうるようになってきたのは、この100年後くらいの話で、この当時は、貴族が大きな力を持っていたと思います。

その力の源泉は何だったのか?

軍事力であったのか?財力であったのか?仏教や神道の祭事の主催者としての地位であったのか?

そのあたりの生々しい現実について、興味を持ちました。これからの勉強課題です。

?平安時代の男性の幸福について疑問を持った

「源氏物語」の時代、貴族の女性には、自ら男性を選ぶ権利はありませんでした。親や周囲の期待によって結婚先が決まります。

男性の側からすると、それなりの社会的地位があれば、自分の容姿等には関係なく女性を妻として娶ることができました。多少、社会的に不釣り合いな縁組であっても、夜這いを仕掛けてモノにしてしまえば、結婚を事実上正当化してしまう、といったことも可能であったように描かれています。

結婚は、相手の女性の気持ちに関係なく、男性の一方的な意思で決めてしまうことができる状態であったようです。

短絡的に考えれば、「男性にとっては良い時代であった」と言えそうに思えます。

しかし、よくよく考えると、「本当に良い時代だったのであろうか?」と疑問に思えるのです。

現代では、少なくとも、法的には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するものとされており(憲法24条)、女性の結婚に対する自由意思が人権として保障されています。男性としては、求婚しても女性自身に謝絶されるリスクがあることになります。

そこで、思うのです。謝絶のリスクを乗り越え、相手の同意を得て結婚するからこそ、真の意味で相思相愛になれるのではないか、と。自らの一方的な意思で女性に結婚を押しつけてしまっては、真の意味で幸福感を持った女性と結ばれ、仲睦まじく暮らせる可能性を狭めてしまうのではないか、と。
「源氏物語」の中には、一方的に結婚を強いて、うまく行かなくなる例がいくつも出てきます。

・・・この点は、論者により、異論がある所かも知れません。これからも、色々な恋愛観に触れる中で、考えていきたい論点です。

?原文の書かれ方に興味を持った

田辺聖子訳の「新源氏物語」と並行して、谷崎潤一郎訳「源氏物語」を少しだけ読んでみました。

すると、結構、話の順序などが異なっているのです。

たとえば、「空蝉(うつせみ)」という女性の章があります。「空蝉」は、いわば女性のあだなです。光源氏が言い寄って、寝所に夜這いしてみたら、お目当ての女性はもぬけの殻であった、という所から女性に付けられたあだななのです。

谷崎潤一郎訳では、女性がもぬけの殻であった、という時点で初めて「空蝉」という女性の名称が出てきます。ところが、田辺聖子訳では、最初から「空蝉」という名でその女性が登場しているのです。田辺聖子訳では、名前の由来のしっくり感といった奥床しさが失われている気がします。そして、おそらく、谷崎潤一郎訳の方が原文に忠実なのだと思うのです。

他にも、田辺聖子訳では源氏が女性に「愛について語る」といったシーンがあります。

・・・紫式部の文章に「愛」といった単語が本当に出てくるのだろうか・・・?何となく違和感があるのです。

といいつつも、谷崎潤一郎訳は、少し難しく、まだとっつきにくい気がします。

原文に忠実そうで、なお現代語訳の瀬戸内寂聴訳をまずはトライしてみようかと考えています。

(by JIN)

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