(by take) 洗礼式

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(by take)早いもので、愛娘「麻衣」が生まれて早2ヶ月が経ちました。子育てがこれほど大変だとは思っていなくて、毎日翻弄されています(苦笑)。親になって初めて、僕たちを育ててくれた「親」の偉大さ(忍耐強さ?)に感心しました(笑)
さて、何度か書いていますが、フィリピンは「キリスト教大国」であり、殆どの子供は生まれてすぐに洗礼式を受けることになります。我が家も出生届などの書類が全て提出できたので、フィリピンの慣習に則って先日洗礼式を済ませました。

我々の先祖のアダムとイブは、その昔「エデンの園」で禁断の果実を食べて追放されたのは有名な話ですね。カソリックの世界では、我々は生まれながらにして、この「罪」を背負って生まれてくると考えられています

そこで「洗礼式」を受けて、過去の罪を精算する事により、健やかに暮らすことが出来るようになる、と言う大切な「人生のスタート」に当たる儀式なのです。

実はカオハガンに住んでいた時に、随分ひどい話だと感じていた事がありました。早産などで洗礼式を受ける前に亡くなった子供は、墓地に埋葬せずに、まるでペットが亡くなった時の様に、家の軒先などに埋めていたのです。「人として扱っていない」と感じて憤りすら覚えました。

今回がちょうど良いチャンスだったので、奥さんに色々と洗礼式について教えてもらいました。

最初に教えてくれたのは、先ほどの洗礼式を受ける前に死んだ子供を何だと考えているのかと言うことでした。

答えはなんと「天使」だそうです。

だから人と同じ「お墓」に埋葬する必要はなく、家を守ってくれるように、軒先に埋めておくそうです。へーびっくりですね!

さて、洗礼式をするに当たって一番大切なことは、「スポンサー」と呼ばれる人を、教会に登録する事です。このスポンサーは子供が無事健やかに育つ為に、何かあれば責任を持ってサポートしてくれる人なのです。もちろん誕生日やクリスマスはプレゼントを持って駆けつけなければいけません。何か子供が苦況に立つことがあれば、「スポンサー」として陰日向となり、助ける事を約束してくれます。

とは言え、スポンサーになったからと言って表彰されたり報酬が出たりする訳ではありません。反対に貧乏な人が多いこの国では、その子供が経済的苦境になり「やっかいな事」を背負い込む可能性が高いのと、日本人の僕は感じてしまいます。でも僕が頼んだ人は全て快くスポンサーになることを受けてくれました。洗礼式に来てくださいと声を掛けた人も、「嬉しい、ありがとう」と言って参加してくれましたし、当日仕事で来られなかった人の中には、後日「参加できなくてごめんね。これは赤ちゃんへのお祝い!」とプレゼントをわざわざ買ってくれる人もいました。

何故なのでしょうか?

ここでは「子供はみんなの宝」みたいな感覚があって、その子供の面倒を見ることについて、スポンサーの様に当てにされる事は「名誉」なことだという感覚があるのです。スピンサーをお願いされると言うことは「この子は、貴方のような立派な人に成長して欲しいのですよ」と言われる事と同じだそうです。

個人的な意見では、フィリピン人は実利主義の人が多いと思います。そのわかりやすい例は「親日感情」ですね。今、フィリピン人は親日派の人が多いと思います。でも第二次世界大戦では、旧日本軍はフィリピンで数々の悪事を繰り広げていました。でも戦後61年、今はODAによる支援、観光収入、日系企業によるフィリピン人の雇用、と日本の存在はセブのフィリピン人の生活に欠かせません。韓国や中国が感じている戦争の「わだかまり」より、「過去は過去」と割り切っている様に思えます。どちらが良いと言うのではなく、考え方が全然違う部分があるのです。実利主義で考えれば、「スポンサー」になる事は、出費やトラブルを抱えるリスクが高くなると言う事になるのですが、それよりも「立派な人と認められたい気持ち」にプライオリティーがあるのですね。

今回の記事は横道に外れた話で、余りまとまりがありませんでした。
でも「麻衣」の洗礼式には30人もの人(親戚以外で)が集まってくれて、お祝いをしてくれました。それは親として単純に嬉しいことです。そしてフィリピンで暮らすことで、より「人のふれあい」を感じて育ってくれるのであれば、それは彼女にとって「人生の宝」になってくれそうな気がします。健やかに育って欲しいと願いを込めて(by take)

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コメント(3)

天使の話はおもしろかった。同じ行為でも外から見ているのと、フィリピン文化の中から見ているのでは、ぜんぜん違ってみえるのですね。こういう発想は、欧州のカトリックやプロテスタント、米国のプロテスタント、さらにユダヤ教やイスラムではどう考えるのか、けっこう興味深いものがあります。誰か知っていたら教えてください。

ところで、takeさんは洗礼を受けないのですか? ちなみに僕は、日本的な宗教となので、神道と仏教のまぜこぜですが。

pacoさんコメントありがとうございます。

僕も一応洗礼を受けるつもりにしていますが、セミナー受講など色々と時間を取られるので、夏休みが終わる頃にしようと思っています。

夫婦で教会にお祈りにいくことは僕にとって、仏壇に手を合わせたり、神社にお参りに行く感覚なので、余り抵抗はありません。

手塚治虫のマンガ「ブッダ」で「宗教は権力と結びついた時、残酷になる」みたいな事が書いてありました。その通りだと思います。ごく普通に教会に行く限りでは、平和で健やかな気持ちになれます。

又、きっと僕の洗礼でもハプニングはあるでしょうから、しっかり記事にします(笑)

洗礼、受ける予定なんですね、合にいれば郷に従えで、いいと思います。

「宗教は権力と結びついた時、残酷になる」という話は、僕はある意味、宗教に対する良心的な理解だと思います。宗教は、たぶん、本質的に残酷になる構造を持っている。権力と結びつくというより、権力へと変質する構造を、本来的に持っているといったほうが正確かな。

もちろんこれは、キリスト教だけでなく、どの宗教も同じです。仏教も、僧兵だとか、残酷な状況になっていたこともあるし、オウムも真理教も、もともとは個人の迷走を尊師が指導するという形だったのに、いつの間にか変化してしまった。

麻、そういうことと、庶民が信仰を持ち、それを心のよりどころにすることとは、たいていの場合、ぜんぜん別の話で、そういう信仰を持って一生を終えるのが普通に幸せなことなんですよね。

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