(by take) 扉

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(by take)初来島から、毎日心地よい「追われるような忙しさ」に身を包みながら、あれこれと動いていました。

積極的に関わる為に、翌年2月、と4月に続けてカオハガンを訪れて、その度に島を訪れているお客さんの話を聞いて、「カオハガンの素顔」を探してみたりもしました。もちろん崎山さんとも、毎回じっくり話をさせて頂きました。

駅前留学に関しては、日々を重ねる間に少しずつ分かるようになってきました。と言っても幼稚園レベルで恐縮ですが (^_^;;)、
そしてマラソンも12時間17分で、100キロ完走出来ました。?(^_^)/でも、もう二度とやる勇気はありません。本当に大変でした。軽く考えていました。

掲げた目標が少しずつ達成していくのを感じていたのですが、一方でカオハガンには当時働いている日本人マネージャーがいらっしゃいました。ホテルの出る利益の殆どを、島民の医療や奨学金に援助していたので、日本人スタッフが増えることは、現地相場の給与といっても、一般フィリピン人よりも高いので収支に大きく影響してきます。フィリピンでは「僅かなお金」でも経済格差がありますから、沢山のことが出来ます。これは当時の崎山さんのジレンマだったそうです。又、将来的に島民達でホテル運営などを自主的に行って欲しいとお考えでしたから(今もこの方針に則って舵取りをされています)、必要以上に日本人を増やすことは、移行に逆行するのではという危惧があったそうです。あえて表現すれば、支配の歴史の長いフィリピン人の気質として、「強いリーダーシップと権限を持つ日本人上司」がくれば、次第に自主性を失い、従うだけの「パーツ」になる可能性があるのです。

しかし偶然、その時期に日本人マネージャーのS氏は、6年半の滞在で培ったカオハガンでの経験を生かして、セブで自ら新しい展開をしたいとお考えだったそうで、その旨を崎山さんに申し出られたのでした。色々と不都合が起こらない様に、後任とは半年の引き継ぎ期間を設けて、じっくり教えていく約束もされたそうです。

S氏と僕の申し込みは、偶然同じ時期に起きていたのです。今でもS氏は「崎山さんは不思議な力を持っている人で、何かトラブルが起きて、自分たちだけで解決が難しい状況になると、いつもそのトラブル解決のヒントになる人がタイムリーに現れて、協力してくれて問題を乗り越えて来たのだ。」と言われます。この不思議な力で、S氏も僕も新しい夢に前進することが出来ました。

この転職話は、半年早くアプローチしても、半年遅くアプローチしても成り立つとは限らなかった様に思えます。まさに絶妙のタイミングでミライへの「扉」が開いてくれました。

こうして2001年10月10日にフィリピンのカオハガンで僕の珍道中がスタートしました。自分の努力と、周りの協力、タイミングに恵まれてスタート出来たと感謝しています。ここフィリピンで楽しく暮らす事が、周りの人への恩返しと思い、がんばって、楽しみます!(by take)

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